院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

28 October

My car is automatic.—辞書の限界?

 『院試塾の現場から』の10月27日の記事「語の意味を正確に検討する」を書いているときにふと疑問に思ったことがある。automaticという語の訳語として「オートマの」がどれだけの辞書に載っているか,である。タイトルの英文のような言い方が実際に可能で,この文のautomaticは「オートマの」とするのが適切だろう。日本語で考えてみても,かなりよく使う言い方だ。
 ということで,手元にある辞書を引いてみた。ぼくがいちばん信頼している『プログレッシブ英和中辞典』(第4版)には,名詞automaticの訳語として「オートマチック車」が挙がっている。これによれば,タイトルの英文は「私の車はオートマチック車だ」となる。いい線をいっているとは思うが,他の辞書を見ると口語的ないしは略式の表現だという記述もあり,そこから考えるとやはり少なくとも「オートマ車」という訳語がほしいところだ。『プログレッシブ』にはautomatic transmissionが独立した見出し語として挙がっていて,これには「オートマ」という訳語も挙がっているが,automaticという形容詞自体の見出しには「オートマの」という訳語は見あたらない。
 他に『リーダーズ英和辞典』(第2版),『ジーニアス英和辞典』(第3版)も引いてみたが,似たような状況だ。調べたみたかぎりで形容詞として用例を挙げているのは『新編英和活用大辞典』だけで,an automatic carという例が見られる。この例から判断するかぎり,形容詞のautomaticにも「オートマの」という訳語を挙げるべきだろうと思われる。
19:11:30 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

27 October

おいしい洋食

 まず,この記事は大学院入試や学問とは一切関係ないことを最初におことわりしておく。
 「洋食」が無性に食べたくなることがある。ファミリーレストランには似たようなものはあるし,そこそこおいしいと思うものもないではないが,こういうときにはパスだ。「洋食屋」できちんとした洋食が食べたい。
 「洋食屋」といってまずぼくの頭に浮かぶのは,神戸・三宮の「神戸キチン」である。「キッチン」ではなく「キチン」だ。実家(兵庫県・淡路島)への行き帰りには,ほぼ必ず立ち寄っている。ビーフシチュー以外は食べたことがないかもしれない。ビーフ,テール,タンの3種類がある。パンがおいしいのも特筆に値する。
 同じく神戸には有名な「赤ちゃん」もある。ここにもたまに行く。ここでのお気に入りは「スペシャルビフカツ」だ。「ビーフカツ」ではなく「ビフカツ」。関西ではこう呼ぶ店が多いと思う。ちなみに,店内では「スペカツ」と称されるこのメニュー,何がスペシャルかはぜひ実際に行って見てほしい。
 子供の頃よく親に連れられて行ったのは,地元淡路島の「とんかつ一番」だ。ハンバーグとグラタンの組み合わせを食べた。今では昔とだいぶ違うという話も聞く。もう15年以上行っていない。ただ,ぼくのハンバーグに対する味覚はこの店のハンバーグで作られたと言ってよいほどだ。淡路島では洲本の「グリル案山子」も想い出の店の店だ。こちらは3年ほど前に再訪を果たした。
 続いては大阪。千日前の「自由軒」は混ぜカレーで有名な店で,ビックカメラの向かいということもあって,大阪に行ったときにはちょくちょく行っている。混ぜカレー(メニューでは「名物カレー」となっており,オーダーを通すときの名称は「インデアン」)とビーフカツの組み合わせで食べることが多い。「自由軒」という名の店は船場(大阪市営地下鉄本町駅)にもあり,こちらにも混ぜカレーがある。横浜のカレーミュージアムに出店しているのは後者。
 あと,ここまで書いてふと頭に浮かんだのが,東京・池袋にあるホテルメトロポリタンのビーフストロガノフ・バターライス添えだ。以前,池袋を通って仕事に通っていたときにはときどき食べたし,メトロポリタンに泊まってルームサービスで食べたこともある。最近はちょっとご無沙汰だ。
 現在の地元である茨城ではどうか。土浦に一軒,ときどき行く店がある。最近すっかりご無沙汰しているが,水戸にも一軒いいお店があるのだが,これは隠し玉なのでここで紹介するのは止めにしておきたい。
 と,ここまで書いてきて,洋食が食べたくなったことは言うまでもない。
20:57:43 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

学ぶことのすばらしさ

 ぼくが院試塾を立ち上げたそもそもの動機は,学ぶことのすばらしさをできるだけ多くの人に知ってほしいと思ったからだ。大学院入試はいわばその「材料」である。もちろん,大学院での研究生活を望む人には,その目標をぜひ達成してほしいと考えているが,何も大学院だけが高度の学びの場ではない。
 学ぶことのどこがすばらしいか。まず,学ぶことによってそれまで見えなかった「何か」が見えるようになる。新しい学問を身につけることで,ものの見かたが大きく変わる。ぼくは大学で言語学を学んだが,それによって言語に対する見かた・考えかたが大きく変わった。一見規則性のないように見える多様な言語現象の背後に,実は大きな原理・原則が潜んでいて,言語学の方法論に沿って考えていくことで,その原理・原則が解明できることを知った。もちろんこれは,英語という外国語を学ぶうえでも大きな武器となっている。
 最近では社会学を学んでいる。主に医療を対象とする社会学だが,この見かたを身につけることで,それまで当たり前だと思っていたことにも疑問を持てるようになる。医療の背後に潜む権力の構造,医療知識の相対性などに目が向くようになった。
 さらに,この関連でマーケティングなども少しずつ学んでいる。このように,学びがさらに学びを誘発し,興味が大きく展開していくのも,学びの醍醐味の1つだろう。
 コンピュータについて学ぶようになったのはもう10年くらい前だ。最初は予備校のテキスト作りのために学び始めた。後にちょっとしたきっかけから専門学校で教えるようになり,さらに大学でも情報関連科目を非常勤で教えるようになった。今でもコンピュータや情報社会論についていろいろと学んでいる。教えることによって,ぼく自身の学びの方向性が広がり,そうして学んだことが教えることにも還元されていく。このようにして,学びのサイクルがどんどん広がっていく。
 ぼくの学びには,「これでおしまい」という目標はない。目標がないと大変だという人もいるだろうが,ぼくにとっては逆である。何かの目標に縛られないから,純粋に興味から学ぶことができる。学ぶことはぼくの生活の中心である。
 残念ながら,多くの人にとってはそうでないこともぼくは知っている。学校は単なる通過点にすぎず,学ぶことは一刻も早くすませたい対象であると考えている人も多い。もったいないなぁ,というのがぼくの率直な感想だ。学ぶことによって,人は大きく変われる。もちろん,それには相当の努力も必要だ。また,ひとりで学ぶのは孤独な作業である。幸い,社会学を学ぶにあたってはすばらしい友人をえて,二人でいろいろと活動を行いつつある。院試塾を通じて,多くの人の学びのパートナーでありたいと,ぼくはつねづね考えている。
15:07:07 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

25 October

モバイル生活と読み書き

 ぼくのモバイル生活は長い。まだ世間一般でモバイル・コンピューティングが認知される前からだから,もう10年近くになるだろうか。ちなみに,これまでにデスクトップ・パソコンは1台しか持ったことはない。
 ホテルに泊まっているときならともかく,そうでない場合モバイル環境には必ず「他人」がいる。この他人というのがなかなかやっかいな存在である。IBMのPT110(超小型のDOS/Vコンピュータ)を使っているときには,「それってコンピュータなんですか?」と声をかけられることが多くて少々閉口したが,その手の話ではない。たとえば電車のなかで,たとえば喫茶店やファミレスなどで,周囲の人間の話し声がかなり気になる場合がある。
 人によっても違う部分があると思うが,ぼくはものを書くときに周囲が少々うるさくてもあまり気にはならない。メールの返信や答案の添削なども外でやる場合が多いのだが,書くという作業が中心であれば,周囲の雑音がさほど気にならずに進めることができる。ぼくにとって,書く作業は比較的集中しやすいのだ。
 一方,本などを読む際にはわずかな雑音でも気になる。仕事がら英文で書かれたものを読むことも多いが,日本語で書かれたものでも同様だ。よほど軽い読みものでないかぎり,周囲の雑音が気になってなかなか集中できない。だから,電車のなかで本を読もうとしても,よほど捨ているときは別として,あまり進まないことが多い。
 体調などによる部分もあるのだろう。本の内容による場合もあるようだ。たまにすっと入っていって集中できるものもある。しかし総じて,モバイル生活が続くと読書量が減る。何とか集中力が続くようにと訓練を試みたこともあるが,どうもうまくいかない。耳栓を使うといった方法もあるだろうが,なんだか露骨に周囲をシャットアウトしているようで,あまり気が進まない。何かいい方法はないものだろうか。
08:19:14 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

24 October

RHODIAメモその後

 9月25日の記事で紹介したRHODIAメモだが,その後について少し述べたいと思う。
 10月21日に1冊を使い切った。切り取ったメモは順次何らかの形で処理しているものの,処理が追いつかないという感じである。「うれしい悲鳴」と言うべきだろうか。とにかく効果は絶大である。今までこんなにむだにしたアイディアがあったのか,と思ってしまう。ちなみにこの記事も,今日電車のなかで書いたメモをもとに書いている。といっても,「RHODIAメモその後/切り取ったメモが『たまる』」という,極めた短い走り書きだが。
 書き留めた内容のなかには,長期的展望をもって臨むべきものもある。今ぼくが主に興味を持っているのが,情報社会論と身体の社会学だが,これらのアイディアはだんだんと蓄積してしかるべき形に仕上げていくことになるだろう。もちろん,主なものは京大カードに移行している。
 せっかくだから,今たまっているメモを少し紹介しよう。「インプットとアウトプットの関係/〜が多いと…も多い/cf.『図解仕事人』通勤の話」というのがある。これは,本を読んでいるとその内容に触発されてどんどんアイディアが出てくるものだなぁ,と感じたときに書いたもの。ぼくのように比較的時間が自由になる(と周囲から思われがちな)人間でも,時間に縛られる仕事が多くなると,本を読んでものを考えることのできる時間はかなり限られてくる。今もちょうどそんな時期で,年内はこんな状況が続きそうだ。そんななか,今日は電車のなかで比較的ゆっくりと本を読んでいたら,いくつかアイディアが出てきた。その時に考えたのは,インプットが多いとそれだけアウトプットも多くなるのではないか,という漠然とした考えである。『図解仕事人』というのは,宮城大学の久恒啓一さんの本で,このなかに通勤時間の有効利用に関する記述があったのを思いだし,ひょっとすると関係があるかもしれないなと思って書いておいたもの。あとでもう一度該当部分を読みなおしてみる予定。
 他には,「勉強好き−(教える)→勉強ギライ/この図式の限界/(『勉強ギライ』から線を引いて)勉強=手っ取り早くすませるべきもの/予備校/[元]勉強ギライが[現]勉強ギライを教える場か?」というのや,ただ一言「構造的欠陥」とだけ書いたものがある。これらはあとでブログのネタにするつもりなので,ここではメモの内容を紹介するだけにとどめておきたい。
20:38:22 - yhatanaka - No comments - TrackBacks