院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

21 February

語の意味をよく考えるということ—resourceを例に

 院試塾の指導でもよく言うのだが,語の意味は文脈によって決まる。このことをしっかり考えておかないと,おかしな間違いをしてしまう。文脈を十分にふまえたうえで,辞書の記述を十分に検討し,深く考えることが大切だ。
 まずは以下の文を読んで,resourceの意味を考えてほしい。急病の子供が地域の病院から大病院にヘリで搬送されてきた,という場面である。

The community hospital he was in did not have the resourcesto deal with this. So the doctors sent him to us. we had the specialists and high-tech equipment. But that didn't mean we were sure what to do. (Atul Gawande (2002). Complications: A Surgeon's Note on an Imperfect Science. p.5)

 まだ辞書を引くのは早い。まず注目すべきはthe resources to deal with thisとthe specialists and high-tech equipmentの言い換え関係である。地域の病院にはresourcesがなく,それがこの大病院にはある,という流れから判断するのだ。
 ここまで考えておいて,まずは英英辞典を引いてみよう。Collins COBUILD Resource Packには,The resources of an organization or person are the materials, money, and other things that they have and can use in order to function properly.とあって,病院はorganizationであり,the specialists and high-tech equipmentはthe materials, money, and other things that they have and can use in order to function properlyであると言えるから,この定義がここで今問題にしているresourceに当てはまることがわかる。また,定義の出だしがThe resourcesとなっている点にも注目しておきたい。通常この語は複数形で使う,ということだからだ。
 また,Cambridge Advanced Learner's Dictionaryには,a useful or valuable possession or quality of a country, organization or personと説明されていて,抽象的ではあるが,resourceの持つ複数の意味をうまく取り込んだ説明だと言えると思う。
 ここでいよいよ英和辞典を引いてみよう。とりあえず『ジーニアス英和辞典』を引いてみるが,「資源,富;(一般に)財源,財産,資産,資金;(まさかの時に)援助をしてくれる人[物],源泉,供給源,貯蔵」とあるだけで,いまひとつピンとこない。
 次に,『プログレッシブ英和中辞典』を見ると,「((しばしば〜s))問題解決能力;精神力;力量;資質」とある。用例は「leave a person to his own 〜s 人を手助けしない,自力でやらせる」とあって,問題としているものにはうまく当てはまらないが,要は「その病院では手に負えなかった」ということで,その「手に負えない」具体的な内容は「専門の医師やハイテク機材がない」ということだから,まさにこれがぴったりと言えるのではないだろうか。ついでに『リーダーズ英和辞典』を見ると,「力量」という訳語があって,用例として「be thrown on one's own resources 自分でなんとか切り抜けるほかない」というのが挙がっている。
 (the) resources to Vという連語関係についてはどうだろうか。『新編英和活用大辞典』やOxford Collocations Dictionaryには適切な記述は見あたらないが,The BBI Dictionary of English Word Combinationsには,the 〜 to + inf. (we have the 〜 to do the job)と,まさにぴったりの例まで挙がっている。
 もちろん,ここで行ったすべての検討作業を,学習者自身が行うことは不可能だろう。しかし,本当の指導者であれば,ここまでの検討を行い,しっかり考えて教育にあたるべきである。しかも,そのための手段は十分に用意されているのだ。教師の本当のresourcesを見きわめる目が,学習者にも教育機関にも,そして社会にも求められているのではないか。ここまで言うのは少し言い過ぎかもしれないが…。
11:12:23 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

09 February

聖書と英語表現

 英語表現を考えるうえで,キリスト教や神の存在を考えないとうまく説明できない場合がある。gifted「天賦の才のある」やcalling「天職」などが簡単な例である。
 聖書の記述に由来する表現も多い。たとえば,cast [throw] one's bread upon the watersもその一例である。『リーダーズ英和辞典』でこの表現を引いてみると,「報酬を求めずに人のために尽くす, 陰徳を積む」という意味が載っており,さらに続けて《Eccles 11:1》という表示がある。これは,この表現が旧約聖書のEcclesiastes第11章の1に由来することを示している。
 新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」となっているこの書の該当部分を見ると,「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから,それを見いだすだろう」とある。『聖書名言辞典』(荒井献・池田裕編著,講談社)には,「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日を経て,あなたはそれを見いだすであろう」とあって,「目先のことにではなく,遠い将来における良き実りを楽しみに,投資すること。どのような『パン』を投げるかは,人それぞれである」と解説をつけている。聖書の言葉はときに抽象的で,独特の比喩を含む場合も多いから,表面的な言葉だけを見ていても,具体的な意味は明らかでないこともある。このようなときに,この辞典のような解説はありがたい。
 英語版の聖書で対応する表現を見てみる。こういう表現はAuthorized King James Version(欽定訳)に由来することがほとんどなので,これを見てみると"Cast thy bread upon the waters: for thou shalt find it after many days."となっている。1611年に出版された古い英語で,thy = your,thou = you,shalt = shallとそれぞれ読みかえればよい。New Revised Standard Versionでは"Send out your bread upon the waters, for after many days you will get it back."とあって,castがsend outとなっている他は,ここでとりあげている表現については違いはない。英語表現自体についても少し確認しておくと,watersとは「大量に存在する水」が基本的意味で,海・川・湖などを表す。また,欽定訳のshalt(= shall)は「神の意志」を表すものだ。なお,New International Versionでは"Cast your bread upon the waters, for after many days you will find it again."とあり,欽定訳を現代語で書き改めたような具合になっている。
 Today's English Versionでは表現がまったく違っていて, "Invest your money in foreign trade, and one of these days you will make a profit."となっている。言いたいことはほぼ同じであるが,言い方は元の表現とは異なる。「外国貿易に投資すれば,そのうち利益が得られるだろう」が直訳である。
08:00:56 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

02 February

「試験文化」と外国語

 自分のやっていることと矛盾しているではないか,と言われるかもしれないが,ぼくはいわゆる試験,ペーパーテストが嫌いである。院試塾のトップページやこのコラムをきちんと読んでくれている人がもしいたら,きっと十分わかってくれると思う。ちなみに,ぼくは大学に推薦入試で入ったから,ペーパーテストとしての大学入試は,当時の共通一次を含めてまったく経験していない。大学院は3つ受けたが,試験対策は専門とまったく関係のない1科目をやっただけだ。
 試験が支配する文化を「試験文化」と呼ぶなら,この試験文化がこの国の教育をずいぶんおかしくしていると思う。試験に受かることが,手段ではなく目標になってしまっているのではないか。本来試験とは,能力を測る手段にすぎない。入試であればその学校で学ぶことが目標であり,試験に受かるのは手段である。資格試験であれば,その資格を手に仕事をすることが目標であるはずだ。各種の検定試験も,学習の到達度を測る手段にすぎない。ところが実際には,試験に受かるために勉強する,という姿勢が随所で見られる。
 このところの不景気と就職難で,少しは学生の考え方も変わるのではないかと期待をしていたのだが,どうやらますます資格や試験に対してますます脅迫観念的になってきているのでは,とすら思ってしまう。試験対策の前に自分自身やスキルを磨く,というあたりまえのことをなぜ考えられないのか(もちろん,本気でそう考えている学生もきちんといるが)。
 最近は大学までもが,試験対策を堂々と授業の目標にすえるようになっている。英語で言うと,「TOEIC○○○点目標」といった具合に,である。1つの指標として考えるのならよいが,たとえば他の授業を受けている学生から,「どうしてこの授業ではTOEIC対策をしないのですか」「○○先生の授業はTOEICには役に立たない」といった声があがったら,大学としてはもうおしまいである。さらに言うなら,これを事務・教務サイドがまともに受けて,何か言うようになったとしたら…。う〜む,おぞましいかぎりである。実用英語をやるな,というわけではない。本当の実用英語をやると「難しい」と文句を言い出す連中が,TOEICなどとなると目の色が変わるのが気に入らないだけだ。そもそも,きちんと勉強していれば,特に対策などしなくても,あの手の試験でもちゃんと点数がとれる。
 TOEICなどの資格試験や,大学入試でもそうだが,英文法の出題はほとんどがマルティプル・チョイスである。そのせいか,マルティプル・チョイスの問題ができることと英文法がわかっていることを同一視するという傾向がある。ちまたにたくさん出回っている大学入試問題集を見てもわかるが,文の基本的な組み立てがわからなくても,一問一答式に考えれば解ける問題が多く,また実際教える現場でもそのように教えることが多いようだ。
 しばらく前のことだが,信じられない経験をしたことがある。以前いた予備校で,同じように英語を教えている講師(その予備校ではかなり人気がある。ついでながら,人間的には決して悪い人ではない。念のため)から,I don't know what to do with the money.はどうしてhow to doではないのか,と,真剣に質問されたのである。もっとも,人気が出るためにはやはりこうでないといけないのかもしれない。いわゆる「生徒と同じ目線」というやつだ。これを世間では「教育のプロ」と言う,らしい。
 英文読解について「速読」か「精読」か,というのがよく問題になるが,これも試験文化のなかで出てくる疑問ではないだろうか。そもそも,1ページ程度の文章を「長文」と呼び,数ページに及べば「超長文」と言って,「問題」の「解法」をまことしやかに解説するためには,こうした虚構とも言える区別をつけることは必要なのかもしれない。しかし,外国語の読解がたとえば学問の文献やその他の本,Webサイトの文章,掲示物や各種案内などを読むためのものだと考えれば,こうした区別を言い立てるのはナンセンスではなかろうか。1冊の本を読んでそこに書いてある思想や心情を理解しようと思えば,訳のわからない悠長な読み方をしていたのでは一生かかっても読み終わらない。もちろん,学習過程ではゆっくり読む段階も当然なければならない(これは今ぼくがフランス語について実際経験していることだ)が,目標はもっと高く持つべきである。
 同様に「直訳」か「意訳」か,というのもばかげた議論だと思う。より冷静に言うなら,そんな議論は翻訳家や教育関係者にまかせておけばよい。学習者の姿勢として大切なのは,目の前にある文章からできるかぎり正確に多くのことを読み取ることであって,自分の考えを無理やり正当化するものではない(こう書くのは,この問題が出てくる文脈の多くが,少なくともぼくの経験したかぎりでは,答案を書いた人が「なぜ私の訳ではいけないのか」と,半ば敵意を持ってきいてくる場合だからだ)。いろんなところでも書いてきたが,いわゆる「直訳」で内容がわかるわけがないし,もし内容がきちんとわかっているなら,「直訳」がどれだけおかしいかはもはや説明の必要はないはずだ。もちろん,直訳的な思考をする段階もあるだろうが,少なくともとらえ方の問題として,直訳がおかしいことはまともな日本語の感覚があれば当然わかるはずのことである。
 少し過激なことを書きすぎただろうか。しかし,このままではどうしようもないというのは,ぼくの率直な気持ちである。聖書の言葉ではないが,耳のある人にきちんと届くことを祈るばかりだ。それと,本当のことを言われて「暴発」する人が出ないように…。
21:56:37 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

うどん考

 東京・秋葉原に去年11月にオープンした,「山本屋総本家」に行ってきた。言わずと知れた味噌煮込みうどんの店である。関西出身で,実家は四国文化圏とも言えるようなところだからうどんは大好きで,実際よく食べている。ぼくの好きなうどんを2つ挙げるなら,徳島のたらいうどんと名古屋の味噌煮込みうどんだ。
 名古屋の味噌煮込みうどんはよく知られているが,実際に食べたことのある人は意外と少ないのではないだろうか。名古屋の店では,よそから来た人が「生煮えではないか」というクレームをつけることがあるらしい。たしかに,そう言いたい気持ちになるのはわからないではないが,あのコシがなければ味噌煮込みうどんではない。しかし,こういう理解されにくいものであるがゆえに,名古屋グルメが東京に進出(味噌カツやあんかけスパ)しても,味噌煮込みうどんの店はほぼなかったのである。
 味噌煮込みがコシを最大限に尊重するのに対して,これでもかというほどコシのないうどんが存在する。意外なことに,名古屋に近い伊勢に,である。その名もズバリ「伊勢うどん」と称し,コシのなさでは今まで食べたうどんのなかでもずば抜けている。やや平ための麺で,汁ではなくタレの中に入っている。「うどん」だと思って食べると何となく不思議な気のする食べ物である。しかし,まずいかというと決してそうではない。ぼく自身,伊勢に行くと必ずといってよいほど食べている。駅そばの店にまであるし,伊勢市内には多数の店がある。
 ここまで書いて,これはうどんではないが,出雲の「釜揚げそば」を思い出した。出雲といえば割子そばがよく知られているし,「釜揚げ」といえばうどんかシラスだと思うが,釜揚げそばなる(少なくともぼくにとっては)不思議な食べ物が存在する。ふつうの丼に,おそらく麺つゆで味をつけたそば湯がはってあり,その中にそばが入っていて,青海苔がかかっている。麺つゆは別にもついてきて,自分の好みに味を調整できる。ぼくが食べたのは出雲市駅のそば屋だが,あれだけ堂々と「釜揚げそば」として出しているのだから,他の店にもあるのだろうと思う。
20:36:59 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

電子辞書大研究

 「電子辞書大研究」というページを作成した。電子辞書については,最近このブログでも何度かとりあげたし,語学教師をしている友人などと話題にすることも多い。かなり普及もしているようで,いろいろなところで教えていてよく見かける。しかし,使い方がきちんとわかっている人は意外に少ないようだし,選ぶにしても機種が豊富でなかなかわかりにくい部分もある。迷っている人たちの参考になれば幸いだ。
20:19:50 - yhatanaka - No comments - TrackBacks