院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

27 March

日本語の問題

 英語が「読めない」のは,もちろん英語力が足りないこともあるだろうが,すぐれて日本語の問題,もっと言うなら言語操作能力の問題ではないかと感じることがある。
 「院試塾の現場から」でもとりあげたが,「感情的に反応的で保護的な大人や兄弟の有用性がトラウマのその後の発達への衝撃に影響を及ぼす」といった訳を平気で書ける人がいる。はたしてこれは英語力の問題だろうか。もちろん,これで英語がわかっているとはとうてい思えない。しかし,それだけだろうか。しっかりした日本語の感覚があれば,この訳文はおかしいと気がつき,少なくとも日本語として「まともな」訳文が書けるよう,自分の理解を見直そうとするのではないだろうか。それができないことが,多くの人の英文読解の最大の問題であるように思う。「困難に配る」という訳も最近目にした。日本語として成立していないが,これを書いて平気で提出できる人がいるのだ。
 こうした人がときどきいて,こちらとしてはどうしたらよいのか途方に暮れてしまう。とりあえず,「日本語としてきちんと成立するかどうか検討しましょう」といったコメントをつける。「意味不明」と書くこともあるが,こう書くと「わからないから講座を受講しているのだ」と開き直る人もいる。大学院入試もここまできているのだ。大衆化にも程があるのではないか。
19:06:24 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

23 March

使いやすさとデザイン

 Donald Norman The Design of Everyday Thingsという,大変興味深い本がある。認知科学者である著者が,日常使うものの機能的なデザインについて論じた本だ。聞いたことのある人もいるのではないだろうか。
 この本の主要な題材の1つにドアがある。みなさんも経験があるのではないだろうか。ドアの前に立って,押すべきか引くべきか,あるいは横にスライドすべきかが直観的にわからない,という事態である。
 こうした事態をどのように解決するか。ありがちなのが「押」「引」という表示をすることだ。たしかに,これでわかるようにはなる。しかし,これがはたして正しい対処法なのか。Normanはそうではない,と言う。押すべきドアは自然に押したくなるように,引くべきドアは自然に引きたくなるように,それぞれデザインすべきなのだ,というのが彼の主張だ。これを専門用語ではaffordanceと呼ぶ。
 これとは少し違うが,いわゆる「テプラ」(なお,これは本当のところキングジムの商品名で,他の会社から出ているものは厳密には「テプラ」ではないが,一般にこの名前で通っているのでこう書くことにする)が貼ってあるのは,もともと何らかの形で「ダメ」なデザインの印だとぼくは思っている。おそらく,操作ミスなどがあまりに多いところ,苦情がたくさん出ているところに,あとから説明を追加しているのだろう。みなさんの周りでも注意してみてみると,こうした追加説明がけっこうあるはずだ。
 Normanは他の例として,水道の蛇口を挙げている。詳しい内容は本を読んでもらうとして,水道の蛇口について興味深い話を聞いたことがある。上下に操作して水を出すタイプの蛇口があるが,もともとこれは下げると水が出るようになっていたそうだ。しかし,ある出来事をきっかけにして,上げると水が出るように「改善」されたらしい。その「出来事」とは,阪神・淡路大震災なのだそうだ。震災のとき,下げると水が出るタイプの蛇口の上にものが落ちて,水が出っぱなしになるということがあったそうで,その教訓を生かして改善されたのだとか。
 ついでながら,盗聴することを英語でtapというが,このtapはもともと水道の蛇口を意味する。途中に勝手に蛇口をつけて水を出すのが,盗聴のイメージと重なるのだろう。
13:06:06 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

22 March

学びの制度化と大学院の価値

 大学院とは何か,あらためて問い直す時期にきているのではないか。これから大学院に進もうと考えている人にとっても,大きな問題となりえると思う。
 これまでの考え方では,大学院は大学卒業後に(すぐにでなくともよい),大学レベルよりも高度な「研究」を行うために行くべきところであったはずだ。院試塾の指導も,基本的にはこの考え方にもとづいて行ってきた。教育制度上も,大学卒業が大学院入学の前提になっているなど,大学院は大学の上,という位置づけはある程度明確であったように思える。
 大学院の位置づけが変わり始めたのは,高度職業人の養成をうたいはじめたときからではないか。それまでは,大学での専門と大学院での専門は基本的には一致しており,大学での学習・研究を大学院でさらに発展させる,という考え方であったように思える。大学院では自分で研究することが重視され期待されていたと言えるだろう。ところが,高度職業人養成をうたうようになり,大学での専門と大学院での専門が一致しない場合が出てきた。これにより,大学院で新しい学問を始めることも増えてきたのではないか。
 もちろんこれ自体は,少なくとも理想的な状態ではあまり問題にならないだろう。この「理想的な状態」とは,「学問の方法」が大学で身についている,という状態だ。大学で学問の方法がきちんと身についていれば,大学院で新しい学問を始めるとしても,指導教員から指導を受けながら「自分で研究を進める」ことが可能なはずだ。
 しかし実際には,大学で学問の方法を身につけている人はごく一部にすぎない。大学でも,最先端の知識を「わかりやすく」伝達することに重点が置かれ,学生に「自分で考える」ことを課す姿勢は十分ではない。
 この結果,大学院は単に「大学を出た人がさらに勉強するところ」になってしまったのではないか。少なくとも一部の,比較的新しい大学院には,この傾向が顕著に見られるように思う。形式的には演習という形態をとりながらも,教員主導の「わかりやすい」授業が行われているところが多いようだ。
 この傾向の先には何があるか。学びがさらに制度化されるだろう。学んだことの「質」ではなく,どれだけの期間学んだか,つまり学びの「量」(ですらないかもしれないが)に対して,修士号などの学位が与えられる,ということだ。大学よりも高度な学問をした結果として学位が得られるのではなく,大学を卒業後さらに一定期間,制度の下で学んだ結果学位が与えられる。
 この結果はどうなるか。学歴インフレが進行する,とぼくは見る。つまり,大学院を修了しているからといって,それが必ずしも有利には働かなくなる,ということだ。すでに,大学を卒業しても就職がない,ということが問題になっている。いろいろな形で大学生に接してみて,もし仮に雇う立場だったらどうか,と考えることがあるが,雇いたいと思うのは本当に一部でしかない。近い将来,同じことが大学院でも起こるだろう,というのがぼくの率直な感想だ。
 一方,これはある意味歓迎すべきことなのかもしれない,とも考える。大学生の中にも,きちんとした姿勢できちんと学んでいる人たちがいる。「大学卒」自体が価値を失った今,その人の資質・能力やすでに身につけたことがどんなものかをきちんと見きわめるようになってきているのではないか。だとすれば,きちんと学んだ人にはより有利な状況が生じるだろう。同じことが,そう遠くない将来,大学院修了者にも起こるとすれば,そう悲観すべきでもないのかもしれない。幸い,本当に意欲を持って学ぼうとする人には,「まともな」大学院ならきちんとした機会を提供してくれるだろう。ただ「親切・丁寧」なだけの大学院を求める風潮もあるようだが,最終的にためになるのかどうか,十分に考えておきたい。
21:24:00 - yhatanaka - 1 comment - TrackBacks

21 March

「空」と「空しい」

 2005年2月9日の記事「聖書と英語表現」では,cast [throw] one's bread upon the watersという表現をとりあげ,この表現が複数の英訳聖書でどのようになっているかを見た。その後さらに調べてみていくうちに,聖書と翻訳論とが深くつながっているのではないかと考えるにいたった。ここで紹介するのは,その一端である。
 なお,ことわっておくが,ぼくは聖書やキリスト教の専門家でもなければ,クリスチャンでもない。あくまで一読者として聖書を読み(それもごく一部を拾い読みした程度),英語研究者の立場から考えを述べるにすぎない。
 そもそもこの問題について考えるようになったきっかけは,すでに書いたとおり,ある本を読んでいて上記の表現に出会ったことである。『リーダーズ英和辞典』を見ると,この表現は「報酬を求めずに人のために尽くす, 陰徳を積む」という意味だとなっている。『ランダムハウス英語辞典』にも「私利を考えないで物惜しみしない[慈悲深い]行動をする,陰徳を施す」とある。当然ながら,「自分のパンを水面に投げること」が,なぜ「報酬を求めずに人のために尽くす」という意味になるのか,一般的な英語の知識だけではわからない。一般に英語辞典では,聖書に由来する表現について,その出典を明示している。この表現にも,「Eccles 11:1」といった形で出典が明示されている。これを手かがりに,実際に新共同訳聖書の該当箇所を読んでみた。
 さて,上記のきっかけから新共同訳聖書にあたってみたわけだが,ここで早くも疑問が出てきた(すでに述べたとおり,聖書を拾い読みした程度の経験しかない)。このEcclesとは旧約聖書のEcclesiastesのことであると辞書にはあり,訳語は「伝道の書」となっている。しかし,ぼくが最初に見た新共同訳聖書(日本語のみ)には,「伝道の書」なるものはなかったのである。そこで和英対照聖書(新共同訳/TEV)にあたってみると,新共同訳では「コヘレトの言葉」となっているのがそれだとわかった(ついでながら,ぼくの聖書についての知識はこの程度である)。
 これでぼくの好奇心に火がついた。同じ日本聖書協会から出ている口語訳聖書のほうを見てみたところ,こちらは「伝道の書」となっている。さらに,いのちのことば社から出ている『バイリンガル聖書』(新改訳/NIV)では「伝道者の書」となっているではないか。これはいったいどういうことか。
 何かあるにちがいない,と思ったぼくは,日本キリスト教団出版局『新共同訳 旧約聖書略解』を見た。するとこういう記述があった。

コヘレトという言葉は,「召集する」という意味のヘブライ語の動詞カーハールの分詞・女性形である。分詞の女性形は職務を表すことが多いので,「召集する者」,「集会で語る者」の意味に解される。そこから,「伝道の書」とか「伝道者の書」という訳がなされてきた。「コヘレトの言葉」という書名は,コヘレトを固有名詞と見なしたものである。(p. 706)

 また,講談社『聖書名言辞典』は,「コーヘレトはおそらく『集会の主催者』の意で,一種のペンネームであったろう」(p.305)と述べている。
 ついでながら,英語のecclesiastには「聖職者,牧師」という意味があり,『ランダムハウス英語辞典』によれば,the Ecclesiastと書くと「伝道者:Ecclesiastesの作者と考えられるSolomonを指す」とある。英訳聖書ではこの書がEcclesiastesとなっているのは,原語であるヘブライ語の表現を,職務を意味するものと見たということであろうか。そもそも,固有名詞か一般名詞(正確には分詞・女性形ということだが)の区別がつかないというのも,現代英語に慣れたわれわれにはわかりにくい話だが,ラテン・アルファベットの小文字も後世の発明であることを考え合わせると,そういうこともあるのかな,程度の納得はできる。もし興味が続くようなら,聖書ヘブライ語なども勉強してみるとよいのかもしれない。
 それでは,具体的な表現の比較として,この「コヘレトの言葉」1章2節を見てみることにしよう。































書名表現備考
新共同訳コヘレトの言葉コヘレトは言う。

なんという空しさ
なんという空しさ,すべては空しい。
口語訳伝道の書伝道者は言う。

空の空,空の空,いっさいは空である。
新改訳伝道者の書空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。
CEVEcclesiastesNothing makes sense!

Everything is nonsense. I have seen it all—nothing makes sense.
KJVVanity of vanities, saith the Preacher, vanity of vanities; all is vanity.書名について“OR THE PREACHER”の記載あり
NIV“Meaningless! Meaningless!” says the Teacher.

“Utterly meaningless! Everything is meaningless!”
NRSVVanity of vanities, says the Teacher,

vanity of vanities! All is vanity.
REBFutility, utter futility, says the Speaker, everything is futile.
TEVIt is useless, said the Philosopher. Life is useless, all useless.

 まず,率直に言って「これだけ違うものか」と思ってしまう。この部分について,『旧約聖書略解』は「新共同訳は『空』を『空しい』と訳しているが,この言葉は形容詞ではなく,名詞であり,『空』と訳すのが正しい」(p.707)としている。またさらに,「«空しさ»のヘブライ語『へベル』は『空』と訳すべきである。それは『空しい』という形容詞ではない。ヘブライ語で『へベル』を二つ重ねた『空の空』は『ハベール・ハバーリーム』という。英語では『ヴァニティ・オプ・ヴァニティーズ』。この二重の表現は,全く,徹底して,の意味を示す」(p. 709)とも述べている。
 ぼくが大学院入試の指導を行う際には,基本的に品詞はある程度自由に転換する立場をとる。これは,安西徹雄さんの『翻訳英文法』(バベルプレス)の立場をふまえたものである。安西さんがこの本でもふれているが,Nidaという言語学者の立場とも共通するものだ。しかし実は,このNidaの翻訳論,最近聖書翻訳との関連で批判されることが多い。これについてはさらに勉強中なので,また機会があったら紹介したいと思う。
19:11:48 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

本の読み方と買い方

 仕事柄,大量の本を読み,かつ買っている。本を読んだり買ったりすることは,ぼくの生活の中できわめて大きな部分を占めていると言ってよいだろう。
 読むべき本とどのように出会うかは,実に難しい問題ではなかろうか。自分の研究に着手しようとする人にとって,これは非常に大きな問題だろう。学校に通ったり,人から何かを教わったりする利点の1つが,読むべき本を提示してもらえることだ。
 そういう先達が身近にいない場合はどうするか。まずは大きな本屋に行ってみる,というのが,ぼくがいつも使う手だ。いい書店とは,本がきちんと主題別に並んでいるところだ,とぼくは思っている。いっしょに読むべき本がいっしょに置かれている,ということだ。これはなかなか難しい。というのも,店員が本の内容についてある程度の知識を持っていなければならないからだ。どの業界でも最近は「プロ」が少なくなっているが,どうやら書店も同じらしく,本の並べ方1つとっても,「これは」という絶妙な並べ方に出会うことは少なくなっているように思う。
 図書館はどうだろう。図書館の場合は目的のものが正確に探せることが重視されており,本の並べ方も十進分類に基づいているが,やはり同じ主題のものはある程度固まって並んでいるので,おおむね同じように使えると言ってよいだろう。ただ,本当に必要な本は,書店で手に入るなら基本的には買うべきだと思うが。
 新しい分野を手がけるにあたって最初に読む本は,やはり文献解題や参考文献表が充実しているものがよい。これらによって,次に読むべき本も決まってくる。多数決原理が正しいとはかぎらない部分もあるものの,多くの本で参考文献として挙がっているものは,やはり読んでおくべきものだろう。
 このようにして,その分野の文献の状況についてある程度俯瞰できるようになったら,あとはオンライン書店も使ってみるのがよいと思う。むしろ,買いたい本が決まっているなら,オンラインで買うほうが便利だとも言える。検索機能が充実しているのが,理由の1つである。また,何冊も買うべき本があるときなど,かなり大きな書店でも1カ所で揃う場合はむしろまれである。もちろん,思いがけない発見もあるから,ある程度リアルの書店にも足を運んだほうがよいのだが,必要性を重視するならオンライン書店に軍配が上がると思う。
 買った本は当然読まなければならない。しかし,ある程度「寝かせておく」こともときには有益だと思う。興味を持続するのは,外からの力がないと難しいことも多い。しかし,ぼくの経験から言うと,一度関心がなくなっても,ふとした機会にまたぐっと興味を持つようになることも多い。そんなとき,その本が手元にあれば,すぐに読み始めることができる。図書館で借りるのは必要な本,自分で買うのは読みたい本,とまであっさり割り切れるものではないが,自分で持っておくメリットはここにもあるのではなかろうか。
18:59:47 - yhatanaka - No comments - TrackBacks