院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

29 April

ブログのあり方についての一考察

 先ほど投稿した記事「英語と学問—working definitionをどう解釈するか」は,引用した本を読んでいてこの表現を見たときにすぐに考え,調べた結果を書いたものである。本を読むのを中断して,手元の電子辞書やパソコンの辞書を引き,投稿が完了するまで約20分といったところだろうか。記事を書いていて,これこそがブログのあり方として望ましいものではないか,と感じた。
 普段はこうはいかない。たいていの場合,本を読んでいて興味を持った部分,後で考えてみたいと思った箇所には,付箋を付けておく。少し考えたことがあるときには,以前紹介したRHODIAメモに書き留めておく。なかには,だんだんとその時の新鮮みが薄れてしまって,成果とならないものもある。また,放っておくうちに興味の対象が移ってしまい,やはり何も書かずにすませておく場合もある。
 記事になるものとならないものの境目を見きわめることもそれなりに意味があるとは思うが,これについて今は立ち入らない。とりあえず,ちょっとしたアイディアを形にするメディアとしてのブログの効用を実感した,とだけ言っておこう。十分な推敲を重ねた文章にももちろん意味があるが,今回のような「即時性」はブログならではの利点ではないか。
 さて,それでは中断した読書に戻ることにしよう。
20:41:17 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

英語と学問—working definitionをどう解釈するか

 まずは以下の引用をご覧いただきたい。

One of the most intriguing features of the burgeoning literature on spirituality is the way that authors go to extraordinary levels to define the term [spirituality] and yet face complete exasperation in trying to pin down a definitive meaning. Accepting defeat, writers normally employ a general meaning, or a working definition, which enables them to corner a fanciful market space drifting on the vague etymologies of the word. (Carrette and King (2005), Selling Spirituality, p.31, italics added)

 この引用のworking definitionはどういう意味に解釈すればよいか。CD-ROM版『英辞郎』(第2版)には「仮の定義」という訳が出ている。これで正しいと言ってよいだろう。しかし,たとえば『リーダーズ英和辞典』や『ジーニアス英和大辞典』などは,working definitionを独立して扱っていないようだ。形容詞としてのworkingを引いてみると,たとえば『ジーニアス英和大辞典』に「実用的な,実際に役立つ,基礎的な」というのがあり,その用例として「a working theory / 基礎的な理論」が挙がっているが,あまりピンとこないかもしれない。
 英英辞典はどうか。Oxford Dictionary of Englishには,(of a theory, definition, or title) used as the basis for work or argument and likely to be developed or improved laterとあり,ここから2つのことがわかる。1つは,working definitionのworkingがこの意味であることで,もう1つは,「基礎的な」という訳語がおそらくこの意味に対応するものだということだ。しかし,「基礎的な理論」という日本語は複数の解釈が可能で,この定義にしたがった意味以外に解釈される可能性も十分にあると言えるだろう。『英辞郎』にはworking theoryが独立した見出しとして挙がっていないが,working definitionを「仮の定義」としているのにしたがって,「仮の理論」とするとずいぶんわかりやすくなる。
 実はこのworking definitionという表現を解釈するには,学問的概念についての基本知識が必要である。それは「作業仮説」という概念だ。英語ではworking hypothesisという。これは学問上非常に重要な考え方なので,たいていの英和辞典でも独立した見出しとして挙がっているが,当然ながら,内容についての説明はなく,辞書を使う側に学問についての知識・理解があるかどうかや,国語辞典を引く一手間を惜しまないかどうかが重要になってくる。『広辞苑』には「ある一定の現象に終局的な説明を設ける仮説ではなくて,研究や実験の過程においてそれを統整(ママ)したり容易にしたりするために,有効な手段としてたてる仮説」という説明がある。working definitionもおおむねこれにそって考えていけばわかるはずだ。「作業仮説」はたまたま訳語が定まっているが,これになぞらえて「作業定義」「作業理論」としてもピンとこないなら,workingに「とりあえずの」という訳語を充て,「とりあえずの定義」「とりあえずの理論」と解釈するとわかりやすいのではないだろうか。もちろん,『英辞郎』にならって「仮の」としてもよいだろう。
 この例を見てもわかるように,外国語だけを独立して学ぼうというのは,特に学問のための外国語を学ぶ場合には,ある種ナンセンスである。書かれている主題や内容に対する一定の理解がなければ,語句そのものの意味もつかめないことが多いのだ。大学院入試のために英語を学ぶ人にも,このことをぜひ肝に銘じておいてほしい。大学での英語教育でも,この点を十分に考えておく必要があるのではないか。
 なお,ついでではあるが,a general meaning, or a working definitionのgeneralについて,orによって2つの句がつながっている点を考えながら,意味を検討してみてほしい。「一般的な」ですませられないことに気づいた人には,それなりの力があると言ってよいだろう。
20:32:15 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

24 April

新書と学問

 かつて,新書が学問の入口となっていた時代があった。
 今でもそうした新書はある。しかし,新書の主流は学問ではなくハウ・トゥーとなってしまっているように思える。
 みなさんも経験がないだろうか。新書を読んでいて,すらすらと読めるものと,かなりじっくり腰をすえて読まなければならないものとがある。この違いが学問的新書とハウ・トゥー的新書の違いにほぼ対応しているものと思われる。また,参考文献がきちんとした形で挙がっているかどうかも,おおむねこの違いを表すものと考えてよいだろう。
 新書は,学問的に少しマセた高校生にはぴったりだった。言語学を志していたぼく自身も,池上嘉彦『記号論への招待』,鈴木孝夫『ことばと文化』,千野栄一『外国語上達法』(いずれも岩波新書)などを読んだ。以前このブログで紹介した笠島準一『英語辞典を使いこなす』も,講談社現代新書で出たときに読んだものである。この本や『外国語上達法』などは,タイトルだけを見るとハウ・トゥー的なものであるかのような印象を受けるが,実は学問(辞書学や言語学)の入口としての役割を十分果たしうるものである。
 また,これは時代背景も関係してくるのかもしれないが,高島善哉『社会科学入門』や大塚久雄『社会科学の方法』といった書物もある(どちらも岩波新書)。初版は前者が1954年,後者が1966年ときわめて古い。今でも「社会科学」という言い方は存在するし,「社会科学」という名称を冠した大学の学部や学科もあるし,「社会科学入門」といった授業もあったりするが,本当の意味で社会科学を1つの大きな学問体系としてとらえるケースはむしろ少ないのではないだろうか(そうではない,とおっしゃるかたの反論をぜひ期待したい)。これらの本は高校時代に読んだものではなく,最近になって「社会科学は正義と公正の学問たり得るか」というテーマで少し考えているときに読んだものだが,どちらの本も社会科学に対する真摯な姿勢・態度がにじみ出てくるものだと思う。
 さらに,学問全体へのイントロダクションの役割を果たす書物もある。この関連でぜひ紹介すべきは,梅棹忠夫『知的生産の方法』(岩波新書)と川喜田二郎『発想法』(中公新書)であろう。特に梅棹さんの本から,ぼくは多大な影響を受けていると思う。大学で情報処理を教えるようになって,何をどう教えるかを考えるときに,大いに参考にした本でもある。もちろん,この本に書いてあることをそのままこんにち実行することは必ずしも適切ではない部分もあるが,大半は今でも十分通用すると思う。そこがハウ・トゥーものとの最大の違いではないだろうか。つまり,学問の本質を突いた書物は色あせないのだ。
 今でも学問的に意味のある新書は多く出ている。しかし,特にあまり大きくない書店の新書コーナーには,ここで挙げたような新書の「古典」に属するものはあまり置かれていない。そこにあるのはほとんどがハウ・トゥーものである。これが今の日本の知的風土の写し絵であるのだとしたら,あまり感心しない。
23:17:09 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

14 April

内田百里函屮汽▲凜ス」

 教育の「サービス産業化」についてはいろいろ考えていることもあり,また院試塾トップページやこのブログなどにもある程度書いてきたが,今回は内田百里僚颪い討い襪海箸箸隆慙△脳し考えてみたいと思う。
 内田百里蓮そ颪い燭發里鯑匹犖造蠅韻辰海Δ錣ままである。しかし一方で,筋が通るか通らないかもかなり重視していたと思われる。その百里鉄道紀行『阿房列車』のなかで,彼なりの「サアヴィス」観を書いているところをいっしょに拾い読みしてみよう。

停車中に見送り人が車内に這入るのは全くあぶない。(中略)鉄道は見送りの人の車内立入りに就いて,もっと親切に,だから徹底的に官僚的に取り締まらなければいけないだろう。そう云う事を手ぬるくして,民主主義的な愛想顔をすると云う法はない。(『第二阿房列車』p.7)

 今の教育に,はたしてこの「気概」とでも言うべきサービス観が,はたして存在するだろうか。いや,もはやそこには,「民主主義的な愛想顔」しかないと言っても過言ではないのではなかろうか。大学や大学院でさえ,学生にとって本当の「親切」とは何かを考えているとは思えない現状が存在する。
 続いても同じ『第二阿房列車』から。山陽本線に新設された特急「つばめ」の上りが神戸停車・三ノ宮通過,下りが三ノ宮停車・神戸通過となったことを批判した部分。

 東海道本線の終点,山陽本線の起点である神戸駅を,片道だけにしろ通過駅に扱ったのは,鉄道というものの姿から考えてよろしくない。「つばめ」が沼津に停車して静岡を通過し,「はと」が静岡に停車して沼津を通過すると云うのとは話が違う。
 こんな曖昧な処置に出たのは,国鉄が段段に高貴なる官僚精神を失いつつある証左であって,人が嫌ってもいいから,毅然としてサアヴィスを行うと云う精神に欠けている。サアヴィスとは愛想顔,御機嫌取りの意味ではない筈である。(『第二阿房列車』p.104)

 こう述べた百寮萓犬今の教育を見たらいったい何と言うだろうか。「教育はサービス業だ」と言うときの,何とも卑屈な響きをどのようにとらえるだろうか。教育はもっと「人が嫌ってもいいから,毅然としてサアヴィスを行う」べきではないのか。「愛想顔,御機嫌取り」に走っている教育関係者に,ぜひ考えてみてほしいところだ。院試塾は,予備校ではあるが,「愛想顔,御機嫌取り」たるサービスには決して与しない。大学院を真剣に目指し,学問の真剣に取り組む人だけに,「毅然としてサアヴィスを行う」ことができなければ存在意義はないと,心の底から信じている。本当の意味での原理原則に徹した「サアヴィス」を提供していきたい。
 百里藁垢好きだったから,旅館に泊まることも多かった。旅館の「サアヴィス」について,彼の考えを見てみよう。

 なぜホテルへ泊まるのか。普通の宿屋よりホテルの方が好きかと聞かれることがある。箱詰めになった様でどの隅も四角で,殺風景で,それに庭のついた或いは見晴らしのいい宿屋の座敷の方が趣がある。しかし宿屋には女中がいる。行き届いた宿屋程そのサアヴィスがうるさい。
(中略)
 …しかし先方ではそう云う風に気を遣うのをサアヴィスと心得ている。…
(中略)
 これ等の事が,ホテルでは一切何の煩いもない。著くとポイが部屋に案内して,カギを置いてお辞儀をして帰って行く。それでお仕舞いで後はなんにも構って来ない。風呂に這入りたければバスがある。お茶が飲みたかったら,命ずれば持って来る。命ぜざればいつ迄でも知らん顔をしている。その知らん顔というのが,旅先では一番難有い。(『第三阿房列車』pp.162-5)

 サービスの「量」と「本質」(単に「質」というのともまた違うだろう)を取り違えると,「サアヴィスがうるさい」となってしまうとぼくは思うが,見る目を持っている人が少なくなっているのか,単にサービスの量が多いこと,つまりいろんなことを「してくれる」のがよいサービスだと思っている人も多いようだ。ジョージ・リッツァの言う「マクドナルド化」の「計算可能性」そのものではないか。なお,アパホテル社長の元谷芙美子さんも,著書のなかで高級ホテルの過剰サービスについて書いている。こういう人がホテルの社長をやっているというのは,心強いかぎりだ。
 内田百里旅佑┐詼榲の「サアヴィス」とは何か。客のその場その場の気分に迎合することではなく,仕事の本質を見極め,プロとしての立場から,心から客のことを考えて何かをすること,だと言えるのではないだろうか。そういう本当の意味での「サアヴィス」精神が,今の日本にはたしてどれだけ残っているだろうか。
23:57:57 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

13 April

勉強が生きるとき,そして再び始めるとき

 どうもいろいろなことに興味を持ってしまい,どちらかというと熱しやすく冷めやすいほうなのかもしれないが,最近,何かを調べたり学んだりしたりしようとすると,高校時代に学んだ(学びきれなかった)ことと関連してくることが多い。
 その代表例が数学だ。高校時代,数学が大の苦手で,田舎のさほど進学校でもない高校であったにもかかわらず,授業についていくのもかなりしんどかった。今になって,情報教育に関わったり,経済学を勉強したりしてみると,数学の必要性が痛感される。必要に迫られて少し勉強はしてみるのだが,独学ではなかなか厳しい。まあ,とりあえず気長にやってみるしかないだろう。
 ごく最近,神道のことを少し調べ始めている。もともと旅行が好きで,行く先々で神社に立ち寄るのだが,いろいろと疑問が出てきたので,少し掘り下げて調べてみる気になった。ここで必要なのが古文の読解である。こちらは高校時代にそこそこわかっていたと思うが,いかんせん時間がたちすぎている。ただ,語学の一種であるから何となく感覚はつかめているようで,注釈のついている本を買って,古語辞典を引きながらであればどうにか読むことはできる。
 高校時代には,数学も古文もただ「勉強する」対象でしかなかった。このような形で生きた知識が必要になるとは思ってもみなかった。学校の勉強が役に立つとか立たないとかいう空疎な議論があるが,あとから必要になっていざ自分で勉強するとなると,これは大変である。せめてもの救いは,少なくとも勉強すること自体のスキルがある程度身についていることだろうか。
21:56:12 - yhatanaka - No comments - TrackBacks