院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

30 May

文化を読むための辞典

 英文を読んでいて,文化的背景がつかめずに内容がうまく読みとれないことがある。以下の引用を見てほしい。

Step off the straight and narrow career-and-materialism groove and you just end up on another one—the groove for people who step off the main groove. ... Want to go traveling? Be a modern-day Kerouac? Hop on the Let's Go Europe Groove. How about a rebel? An avant-garde artist? Go buy your alterna-groove at the secondhand bookstore, dusty and moth-eaten and done to death. (Naomi Klein (2002). No Logo. p.63)

このKerouacとはどういう意味か。文脈から推測するための着目点は,people who step off the main groove / go traveling / rebelといったところだろうか。しかし,この人物が何者であるかがわからないと,具体的に理解するのは難しいだろう。『ランダムハウス英語辞典』を引いても,「ケルアック(1922-69):米国の"Beat Generation"の小説家」とあるだけで,be a modern-day Kerouacが具体的にどういう意味なのかはわからない(ただし,Beat Generationを参照すると,「米国の物質文明に反抗した若者たち,またその世代」と,後述する内容の説明がある)。
 こんな時に役に立つのが,文化を解説した辞書だ。ぼくの手元には,Oxford Guide to British and American CultureLongman Dictionary of English Language and Cultureの2冊がある。今問題にしているKerouacについてOxfordのほうを引いてみると,以下のような記述がある。

Jack Kerouac
(1922-69) a US writer of novels who has been called 'the spokesman for the *beat generation' of the 1950s. His best-known novel is On the Road (1957), about a journey across America by a young person who is opposed to traditional American values. His other novels included The Subterraneans (1958) and Big Sur (1962). He also wrote poetry.

すでに着目した点と照らしあわせてみると,a journey across America / opposed to traditional American valuesといった点が符合する。
 さらに,この辞書でthe beat generationも引いてみよう。

a group of young people in the 1950s and early 1960s, especially writers and artists, who rejected the social values of their time. They tried to find a different style of living, becoming interested in eastern religions and new forms of writing. The movement began in the US and included such writers as Jack Kerouac and Allen Ginsberg (emphasis added)

イタリック部分を見ても,やはり既存の価値観に対して反抗的であったことがわかる。
 Longmanのほうはもう少し簡潔で,Kerouacの項には「反抗」に言及する解説は直接含まれていない。やはりbeat generationへの言及があるのでそちらを参照してみると,who did not accept the traditional values of Western societyとの記述があり,ここからもKerouacが,既存の権威への反抗の象徴として引き合いに出されていることがわかる。
 もう1つ例を挙げておこう。以下の引用をご覧いただきたい。
Williams also pointed to a sinister aspect of Simon Says. "The major problem," he wrote, "is that the teacher is doing his or her best to deceive and entrap students." He added that psychologically this game is equivalent of teachers demonstrating the perils of electricity to students "by jolting them with an electric current if they touch the wrong button.(Christina Hoff Sommers and Sally Satel (2005). One Nation under Therapy. p.13)

このSimon Saysとは何か。『ランダムハウス英語辞典』には以下の解説がある。

「サイモンが言う」: 子供の遊びの一種; リーダーが"Simon says"と言って始める動作と命令を他の者全員がまねしなければならない。
日本の「羅漢回し」に近い。

とりあえずどんな遊びなのか,何となく想像がつかないでもないが,上記引用のdeceive and entrapとの具体的なつながりはよくわからない。
 まずはLongmanのほうを引いてみると以下の説明がある。

a game played by children in which one child tells the other children to do things such as sit down or stand on one leg, but they must only do something when he or she says 'Simon says' before giving an order (emphasis added)

『ランダムハウス』よりはだいぶ具体的なイメージが持て,特にイタリックの部分のonly ... whenをしっかり理解すれば,どんなルールの遊びであるかも大まかには見えてくる。しかし,もう少し具体的な説明がほしい。
 Oxfordのものを引いてみると,ずいぶん見通しがよくなる。以下の引用を見てほしい。

a children's game in which a leader gives a series of commands, such as 'Simon says put your hands in the air'. The players must do everything that Simon says, but when the leader gives a command without saying 'Simon says ...', they must not do it. (emphasis added)

強調部分がほしかった情報だ。これでどんな遊びなのかイメージが持てるし,問題にしている引用文のdeceive and entrapとの具体的な関係も見えてくる。
 もちろん,こうした情報を違う形で持っている人もいるだろう。しかし,少なくともここで紹介した「文化を読むための辞典」を手元に置いて,必要に応じて参照すれば,読みもずっと深くなるだろう。
 なお,今回紹介した2冊の辞書のうちOxfordのものが,『電子辞書大研究』で紹介したSonyのEBR-S7MSに収録されている。また,この辞書はCD-ROM版も発売されている。
22:26:24 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

08 May

comparableとconsiderable—語の意味の考え方

 comparableという形容詞はcompare+ableと分析できる。接尾辞-able(実はぼくの卒業論文のテーマだ)は「受動+可能」が基本的意味で,これでいくとcomparableは「比較されうる」という意味だと考えられる。実際はどうか。もちろんこの意味でも用いられることはあるが,「似ている」とか「匹敵する」という意味で用いられることのほうが多いように思われる。
 「匹敵する」は「比較が成立する」「比較する価値がある」からきていると考えることができるだろう。比較が成立するためには,ある程度似たレベルになければならない,ということだ。日本語でも,あまりにかけ離れているものについては「比較にならない」と言ったりする。
 「似ている」はどうか。こちらはcompare A to Bで「AをBにたとえる」という意味があるのと関連づけると良いだろう。日本語でも「比喩」という言葉を使うが,比べてみて共通点があるからたとえが成立するのだ。つまり,「〜にたとえられるくらい似ている」からきているのではなかろうか。
 このように考えれば,一見覚えにくい語の意味も記憶に残りやすくなる。自分で仮説をたてながら,辞書などもたよりにして考えていくとさらに理解・記憶が深まることは言うまでもない。
 considerableが「かなりの」という意味になるのはなぜか。これも「考慮に値する」(つまり,無視できない)に由来すると言える。辞書を引くと,「考慮に値する」と「重要な」がひとくくりになっているが,これも納得できるだろう。
 こうでもしないと,単語を覚えるのはきわめて空しい作業である。しかし,このように考えることによって,語の意味を覚えることが「単純作業」から「知的な営み」へと昇華する。本当に「頭を使う」作業となるのだ。
21:56:33 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

04 May

ふと思い出した言語学入門—二重語

 大学の授業で教わったかどうか忘れたが,言語学概論レベルで扱われる概念として「二重語」(doublet)というのがある。簡単に言うと,もとは同じ語源であるが,異なった経路で借用されたことによって,ある言語では異なる2つの語となっているものだ。日本語の例を挙げると,英語のstrikeが野球の「ストライク」と労働者の「ストライキ」,cupが「カップ」と「コップ」,ironが衣類にかける「アイロン」とゴルフの「アイアン」にそれぞれなっている。
 これを思い出すきっかけとなったのが,ある本を読んでいてThe opening volleys have already been exchanged.という文に出会ったことだ。このvolleyを訳すとすれば「ボレー」となろう。すでにわかったと思うが,このvolleyを含む語としてvolleyballがあり,これは「バレーボール」となる。つまり,「ボレー」(主にテニスか?)と「バレー」も二重語なのだ(ところで,バレーボールで「ボレー」という用語は使うのだろうか?)。こんなことを考えながら,ふと言語学を学びはじめたころのことを思い出した。
 ここに学問の根本があるのではないか。つまり,基本概念を学ぶことで,それまで漠然としか意識されなかったものが整理され明確になる。確たる概念として頭の中に根づくことで,より多くの現象が同じ概念の表れとして意識されるようになる。当然,現象の見方もより細かくなる。これは何も言語学だけではない。すべての学問に言えることだ。この「学問の力」を実感することは,学ぶことの原動力にもなると思う。
23:17:15 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

01 May

語を概念で理解する—pathの場合

 言葉の背景には必ず概念がある。特に外国語を扱うとき,このことを忘れてはならない。
 英語のpathという語を考えてみよう。辞書を見ると「小道」が基本的意味だという印象を受ける。ここから抽象的な「経路」といった意味が派生しているわけだが,概念を介在させないと,正確に理解するのはなかなか難しい。たとえば,A child ran into the path of a car.という文をどのように解釈するだろうか。the path of a carを「車の通り道」「車の進路」としても,いまひとつピンとこないのではないか。しかし,下の図のように考えれば「子どもが車の前に飛び出した」とすっきり理解することができる。

 pathと前置詞との連語関係についても,概念図を考えればわかりやすくなる。たとえば,「成功の方法」をpathを使って表現するとしよう。『新編英和活用大辞典』には,the path of successという例が挙がっている。一方でthe path to freedomというのもある。後者にならってthe path to successとは言えないのだろうか。『新編英和活用大辞典』の電子辞書版で,path&successで例文検索をしてみると5件のヒットがあり,上で紹介した例以外はpath to successとなっている。Oxford Collocations Dictionaryで同じように例文検索をかけると,His feet were now firmly on the path to success.というのが見つかる。こういう問題を多数決で解決するわけにはいかないだろうが,どうやらpath to successのほうが一般的なのではなかろうか。
 path of/to successの両方が可能だとして,両者の間に違いはあるのだろうか。決定的な答えを用意しているわけではないが,以下の図で表せるような違いがあるのではないか。

前置詞ofの中心的意味を定義することは難しいが,私見では「=」関係が基本ではないかと考えている。仮にそうだとすると,path of successはpath全体がそのままsuccessである,つまり成功しながらたどっていく道筋,という意味になる。もう少し具体的に言うなら,成功しながら進んでいくこと,とすればよいだろうか。これに対してpath to successは,toの基本的意味が「着点」だから,「成功という結果に至る道筋」と考えればよい。
 ここから先は少し思弁的になるが,お許しいただきたい。本を読んでいてpath of recoveryという表現に出会った(この記事のを書くきっかけとなったものだ)。これをpath of successと同様にとらえるなら,だんだんと治っていくこと,ととらえることができるだろう。一方,Webを検索してみると,どうやらpath to recoveryのほうが一般的なのではないかと思える。後者の場合には,最終的な結果がrecoveryであるととらえていると考えられる。つまり,recoveryに対する違った見方が,この前置詞の選択の差の根底にあるとは言えないだろうか。recoveryをprocessととらえるか,それともgoalととらえるか,という違いだ。実際,本に出てきた表現をもう少し広くとるとa 12-Step spiritual path of recoveryとなっており,段階的に治っていく,という意味が読み取れる。
 このような概念の図示が,すべての場合に可能なわけではない。しかし,ここで紹介した考え方を可能な限りしていくことで,外国語の理解がずいぶん深まることは間違いないだろう。一度試してみてほしい。
22:24:55 - yhatanaka - 4 comments - TrackBacks