院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

31 October

語句の意味の拡張—「そもそも」という意味のin the first place

 in the first placeという表現には大きく2つの意味がある。「第一に」と「そもそも」である。LDOCEを見ると,第1の語義の例としてIn the first place, I'm too busy, and in the second I don't really want to go.が,第2の語義の例としてI wish I'd never got involved in the first place!が,それぞれ挙がっている。前者はin the second (place)との対比にも注目しておくのがよいだろう。「そもそも」という語義の例として,Macmillan English DictionaryにはIf you don't like her, why invite her in the first place?というのが挙がっているが,この用例のように,疑問文で用いられる場合も多い。
 ここで考えたいのは,なぜ「第一に」という意味の表現が「そもそも」という意味でも用いられるのか,だ。COBUILDを見ると,「そもそも」に相当する語義はYou say in the first place when you are talking about the beginning of a situation or about the situation as it was before a series of events.となっている。つまり,「ことのはじまり」に焦点を当てるときにこの表現を使う,ということだ。
 日本語でこの「そもそも」という語がどういう意味を持つかも検討してみよう。『新明解』を見ると,1番目に「問題となる事柄を論じるのに先立って,その根源にさかのぼってことを説き起こす様子」,2番目に「以下に述べることが,話題の中心となる事柄を理解してもらう上で前提となることである意を表す」となっている。1番目が副詞,2番目が接続詞という違いからも語義が分けられているように思われるが,どちらも英語のin the first placeに対応すると考えてよいだろう。
 それでは,この問題を図解を用いて考えてみることにする。「第一に」の意味はおおむね以下のように図解できる。

順序だって述べられたことの1番目のものに焦点を当てている,という意味だ。
 これに対して,「そもそも」という意味は以下のように図示できるだろう。

この図でいちばん重要なのが赤い矢印だ。現在の状況から最初のところまで話を引き戻す,という意味を表している。
 語句の意味は常に比喩的に拡張される可能性を持っている。今回とりあげたin the first placeについても,「第一に」からの拡張の結果,「そもそも」という意味を持つようになったと考えてよいだろう。この拡張の過程がきわめて自然なものであるのが,2つの図解を比較すれば明確にとらえられる。
16:01:32 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

30 October

学問と「課題設定能力」

 学問は基本的に「自分でする」ものだ。まず,学問をする動機は自発的なものであるべきだ。自発的に求めてはじめて,学問が本当の意味で自分のものになる。資格をとろうとする場合でも基本的には変わらない。「資格に見合う自分」にならなければ,資格は生きてこない。単に資格があるというだけでは,幸せにもなれないし,仕事の充実感も得られないだろう。
 学問を自分でやる,という意味について,以下の引用を見てほしい。

高校までは,学問といえば,受験で出るような問題を塾や学校の先生に指導されて解くことだった。きみたちは、先生の指導どおり勉強することが学問だと考えているだろう。学問なんて一生するものだ。そして卒業したら,先生に聞かなくても,一人でできるようにならなくてはいけない。大学の四年間はだんだん自立していって,つまり教師離れしていって,一人で学問ができるようになる過程だと心得てほしい。
中山茂(2003)『大学生になるきみへ—知的空間入門』岩波ジュニア新書

ここには大切なことが2つ書いてある。1つは,大学の4年間で「一人で学問ができる」ようになっているべきである,ということ。もう1つは「学問なんて一生するもの」であるということだ。
 実際のところはどうだろうか。大学院を受けようとしている人でも,「一人で学問ができるように」なっているはずの人は実に少ないように思える。「『研究』計画書」を書いているはずなのに,大学院でも何でも人から教わろうとしているのか,「『お勉強』計画書」を平気で書く人がいる。院試塾の指導を受けていても「教わってなんぼ」的な発想をしていると見受けられる人がいる。個々の知識だけではない。志望校選びや勉強法にいたるまで,何でも「聞けるものは聞いてしまえ」ということだろうか。少なくとも,テーマ探しぐらいは自分でやらないといけない。院試塾の指導でもこの点を指摘するが,そこから変わっていける人とそうでない人がいる。この時点ですでに勝負はついている,といっても過言ではない。事実,最終的に合格するのは圧倒的に「変わっていける」人たちだ。
 自分で適切な課題を設定できる能力は特に重要だ。少し長くなるが,以下の引用を見てほしい。

 受験産業が発達しているいまは,学校別に過去の試験問題を徹底的に分析して傾向を割り出すことがふつうに行われています。すると,目標にしている大学の受験に必要とされる解法パターンに絞って覚える丸暗記タイプでも,合格は可能でしょう。事実,このようにしてかなりの難関大学に合格している人も,世の中にたくさんいます。たしかにこと受験勉強に限れば,いちばんムダの少ない効率的な勉強方法だと言えるかもしれません。
 私自身の印象でも,東大に入ってくる学生の少なくとも三割くらいは,こうした丸暗記によって,受験を突破してきたように見えます。そうした丸暗記タイプは自分の知っている問題に対しては,たいへん解答スピードが速いのが特徴です。
 しかし残念ながら,大学に入ってからは,こうした人は非常に苦労することになります。なぜなら大学では,暗記だけではクリアできない「自分で考えを構築していかなければいけない」「何が課題なのか自ら見つけなければいけない」「見つけた課題を自分なりに解決する方法を講じなければいけない」などといったことが求められるからです。記憶力とマッチング能力だけでやってきた人には,これができないので,とたんに何もできなくなるということが起こります。
畑山洋太郎(2005)『畑村式「わかる」技術』講談社現代新書

畑村さんはこのようにして,「課題設定能力」が重要だと説いている。この能力が大学院でさらに求められることは間違いない。というよりもむしろ,大学ではこの能力を十分に養成するような教育がもはやできにくくなっている,というのが実情ではないだろうか。
 研究計画書を書く,というのは,まさにこの「課題設定能力」が試されていると言ってよい。「何が課題なのか自ら見つけ」,「自分なりに解決する方法」を考え,「自分で考えを構築」することが求められているのだ。これがある程度できなければ,大学院で研究を進めていくことはできないし,仮に修了できたとしても,大学院修了にふさわしい自分にはなってはいないだろう。周囲の期待と自分の実力とのギャップにかえって苦しむことになってしまうかもしれない。
 英語学習においても,実はこの「課題設定能力」が重要となる。目の前にある英文を読むために自分に欠けているものを知識・情報を見きわめ,その欠けているものを補うためにどんなことを調べるべきかを知り,自分で辞書や文法書を使って問題を解決し,自分なりに考えを構築しながら読み進めることが大切なのだ。調べるべきことをすべて提示する教育は,一見効率がよくムダの内容に見えるかもしれないが,実はこうした機会を奪っているのがたいへんな問題である。
 しかし一方で,「では教育を受ける意味は何なのか」という疑問が生じるだろう。哲学で言う「産婆術」のようなものであるべきだと,ぼくは考えている。院試塾が目指しているのもまさにそういう教育だ。答案や原稿を介した「対話」を通じて,受講生が「課題設定能力」を自ら育み,発揮できるように道を示していくのがぼくの役割だ。研究計画書を書くのであれば,徹底して考えることをうながし,具体的な記述を求めていく。英語学習では,受講生が「知っている」「わかっている」と錯覚している点を徹底して突き,反省をうながし,調べて自分なりの答えに到達する訓練を施す。合格者のコメントで「厳しい」と書いてもらえるのは,こうした教育理念が功を奏しているからだと自負している。
 学問は一人でするものだ。しかし,対話によって学ぶところもまた大きい。課題の解決に向かって限界まで努力した人には,他者の「ちょっとした一言」がたいへん大きな意味を持つ。その「ちょっとした一言」をくれる人が周りにたくさんいるのが大学院であり,院試塾もそこにいるに値する人々を作り出すことを使命としている。
20:27:20 - yhatanaka - 7 comments - TrackBacks

26 October

研究計画書の基本—「研究」の「計画」を書く

 院試塾の「研究計画書作成指導」でも常々言っていることで,このブログや「院試塾の現場から」ブログにも書いたが,研究計画書とは「研究」の「計画」を書くものだ。すべての基礎はここにある。これを図解で確認するとこうなる。

「研究」は主にテーマの説明で,「何を」研究するかを述べる。「計画」は研究の方法を述べるもので,「どのように」研究するかを説明する。きわめてシンプルではあるが,この点をしっかり確認したうえで作成を開始しなければ,焦点のずれた計画書になってしまう場合が多い。
 さらに「研究」と「計画」のそれぞれについて考えていこう。「研究」は主に研究テーマそのものについての説明となる。以下の図解のように,大きく3つの要素で考えるのがよいのではないだろうか。

まずはテーマの概略を説明する。テーマを構成するキーワードを中心に述べていくとよい。
 テーマの選定理由も説明する必要がある。これは「研究の意義」と言い換えてもよく,大きく3つの要素からなる。第1は,学問研究としてどのような意味を持つかである。学問の世界では,何らかの形で「新しい」ものしか意味を持たない。これを「新規性」と呼ぶ。自分の研究テーマが,学問的にどのような意味を持つか,すなわち学問にこれまでにないどんなものを新たに加えるのかを述べる必要がある。当然,これが言える段階まで検討作業を進めておかなければならない。
 研究の意義の2番目は社会的な意義である。自分が着手しようとしている研究にはどのような応用可能性があるのかを考える。純粋理論研究を行う場合でも,たとえばその研究が社会にどのような影響を与えるのかは考えておいたほうがよい。
 第3の要素は自分にとっての意義だ。研究テーマが自分のなかでどんな意味を持つのか,たとえば,長年感じてきた疑問を解決する,今直面している問題点を解消する,将来に役立てる,などについて考えていけばよい。
 「何を」については研究対象の具体的な説明も必要となる。対象を示すキーワードはすでに研究テーマにも含まれているだろうが,そのキーワードはあいまいにならずにきちんと対象を限定できているだろうか。対象の具体的な限定まではテーマには含まれていない場合が多いだろう。この点をきちんと説明しておかなければならない。
 「計画」,つまり「どのように」の説明には大きく2つの要素があると考えている。

1つは研究の具体的方法である。この点が煮詰まっていない研究計画書が実に多いのが現状だ。研究はどんな理論的枠組みで行うのか,対象についての調査・分析はどのような観点から,どんな方法論を用いて行うのか,研究完了までの具体的な道筋についてどのような見通しを持っているのか,などを述べる必要がある。
 もう1つの要素は先行研究だ。まず,自分の研究を具体的に位置づけるために,類似テーマを扱った研究に言及しながら,自分の研究がそれらとどのような関係にあるのかを自分なりに分析する必要がある。また,研究の方法論について参考となる研究,その方法論の原点となる研究や,具体的な方法を利用する研究を紹介する。また,修正や批判の対象となる研究についても言及する必要があるだろう。
 もちろん,ここに挙げたものがすべてではないが,これらをまずはきちんと考えたうえで,十分整理して述べなければならない。
 1つ注目してほしいのは,「背景」に関する記述をあえて含めていない点だ。背景についてまったくふれてはいけない,ということではない。しかし,背景の記述はあくまで添え物にすぎないのであって,「研究」「計画」の中心とはなりえない。背景から記述を始め,大半が背景記述に終始している原稿を目にすることはきわめて多い。背景の位置づけについて,「研究」の「計画」を述べるのが「研究計画書」である,という認識から十分に考えてほしいものだ。
21:17:55 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

25 October

英語を学ぶとはどういうことか?

 英語を学ぶとはいったいどういうことか。基本的な問いであるが,きちんと考えている人は実は少ないように思われる。「直訳的発想」にとらわれている人が多すぎるのではないか。
 「直訳的発想」とは,英語と日本語が単語・文法・構文などのレベルで「1対1対応」している,という考えかただ。この考え方に従えば,1単語につき訳語を1つ覚え,文法・構文の「訳しかた」をマスターすれば,英語は読めるし書ける,ということになる。しかし,少し真剣に学習すればすぐわかることだが,この発想は間違っている。これでは英語は読めるようにも書けるようにもならない。
 次に出てくるのは,「1対1」を「1対多」「多対1」に発展させることだ。上で述べたような極端な1対1対応の考えかたから抜け出せたとしても,この段階で止まってしまう人が多い。要するに「量的拡大」の考えかただ。覚える数を多くすれば英語ができるようになる,という考えである。しかし,これはいわゆる「試験対策」にはある程度なっても,それ以上には発展しない。
 こうした考えかたはなぜ間違っているのか。ごく簡単に言うなら,言語は概念と対応するものであり,概念の「切り取りかた」は言語によって異なるからだ。このように「概念」を中心に置いて,英語学習の基本的な考えかた,つまり「グランド・デザイン」を真剣に検討してみる必要があるのではないか。
 ぼくの現在の考えでは,英語学習のグランド・デザインはおおむね以下のように表現できる。

 まず,英語と日本語は直接1対1ないしは1対多(多対1)に対応してはいない。両者を結びつけているのは,それぞれの言語の表現形式(語句・文法・構文など)が表す概念である。簡単に言うなら,言語表現からその背景にある概念を読み取ることが「読解」であり,概念から出発して具体的な言語表現を求める作業が「表現」である。
 したがって,英語と日本語の間を行き来する場合には,必ず概念をいったん経由しなければならない。英語を日本語に訳す場合には,英語表現から概念を取り出す作業,すなわち「読解」を行ってから,今度はその概念を日本語で「表現」することになる。日本語を英語に訳す場合には逆に,日本語表現の背景にある概念を読み取って,それを英語で表現するのだ。
 事態をより複雑にするもう1つの要素が「状況」である。言語表現と概念も1対1に対応しているわけではない。これは,たとえば語句の場合にいわゆる「多義語」があることからもわかる。言語表現から概念を正確に読み取るためには,その概念と対応する「状況」との整合性を常に考慮しなければならない。「文脈」の多くはこの整合性であると考えてもさしつかえないだろう。
 このように考えれば,たとえば英和辞典の訳語に対する考え方も変わってくるはずだ。すでに述べたように,英語と日本語の語句は多くの場合1対1対応の関係にはなっていない。そもそも英和辞典の「訳語」とは,語義(=英語のある語の意味)を表現するための媒介にすぎない。たとえば,ある語に対応する訳語が3つ挙がっている場合に,それらの訳語と語義の関係は以下のように図解できる。

中心の重なっている部分が「語義」(より正確に言うなら,語義の一部)である。訳語と語義の関係はこのようになっているから,たとえばある語義を表すのに適切な訳語は,文脈によって1~3のいずれかを選ぶ必要がある。場合によっては,辞書に挙がっていない訳語を選択する必要すら生じる。逆に,ある訳語に対応する語義も1つではない。
 ぼくは最近「図解」にこだわっているのも,図解が言語表現とではなく概念との対応関係がより深いので,概念を中心にすえた理解の道具として有効だと考えるからだ。
15:07:39 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

24 October

英語をしっかり理解する—変化の意味を表す比較級

 英語の比較級は,形式が簡単なこともあって軽視されがちで,文法書などでも扱いが比較的軽い。しかし,英語を使ううえで比較級が問題となる場合もある。特に,比較級が変化を表す場合がそうだ。
 たとえば,「隣に家が建ったので彼は自分の家の塀を高くした」という意味の英語を考えてみよう。特に問題となるのが「高くする」だ。make the walls around his house highとしてしまうのではないだろうか。しかし,これは英語の発想に基づいた表現とは言えない。英語の発想ではmake the walls around his house higherとすべきなのだ。なぜか。以下の図を見てもらえばすぐに納得してもらえるだろう。

 英文を読む場合にも,このように「変化」を表す比較級は注意を要する。たとえば,There seems to be less of the need.という文は「そうする必要はあまりなくなったように思える」ととらえ,変化の意味を読み取るのが適切だ。これも以下のように図解できる。

文法項目や語句ばかりでなく,こうした「発想」をきちんと理解することが大切だ。
20:21:47 - yhatanaka - No comments - TrackBacks