院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

31 May

読書の展開と問題意識

 ある問題に興味を持って本を読み始める。あるいは,たまたま書店で見かけた本を買って読む。そうすると,そこから関連する本が読みたくなる。読書の楽しみの1つである。また,読み進めるにしたがってだんだん問題の所在が明確になるとともに,その問題の「広がり」もわかるようになる。
 1つ例を挙げよう。以下の図は,ぼくが最近読んだ本の関係を示したものだ(※初期表示では見づらいかもしれない。必要に応じてダウンロードしてみていただきたい)。

端緒は梅田望夫『ウェブ進化論−本当の大変化はこれから始まる』ちくま新書だ。これは発刊当初に書店で見かけて買ったものである。今ではずいぶん売れているようだ。Webの社会的側面にふれたもので,技術論に偏りがちなWeb論のなかにあって,読みやすく興味深い本である。
 この本の中で言及されているのが,James SurowieckiのThe Wisdom of Crowds. Doubledayである。この本は前に何かの関連で買っていたもので,長い間「積ん読」状態になっていたのだが,これをきっかけに読んだ。そこからさらにGladwellのThe Tipping Point. Back Bay Booksをはじめとする3冊の本に進んでいった。そのうちの1冊,Steven JohnsonのEmergenceはかなり前に買って持っていたがやはり読まずにいたものだ。Howard RheingoldのSmart Mobs. Basic Booksは新たに買ったが,ちょうど並行して読んでいた公文俊平『情報社会学序説−ラストモダンの時代を生きる』NTT出版でも言及されていた。
 これらの本を読んで,情報社会と集団行動についてさらに興味が深まり,問題意識もより明確になった。自分の日々の研究でもこうしたことに興味を持ってはいるが,読むべき本,読んでおいたほうがよい本すべてを把握することはきわめて難しい。それだけに,こうした「連鎖」はきわめて貴重な経験だと言えると思う。
09:54:24 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

30 May

動詞shareの意味の「幅」

 動詞shareは意味をつかみにくい動詞である。大きく分けると「分ける」と「共有する」という意味があり,意味の「幅」がずいぶんあるように感じられる。
 理解のために2つの意味を図解してみよう。「分ける」は以下のようにイメージできるだろう。1つのものを分けている点に注目する。

これに対して,「共有する」は以下のようになる。「分ける」との共通点を感じ取ってほしい。

要するに,1つのものを2人(以上)で使うなどするとき,結果としてそのものを分割するかしないか,によって「分ける」となったり「共有する」となったりするのだ。
 基本的にはこの2つの意味があるshareだが,具体的な文脈によってはさらにいろいろな意味で解釈できる。たとえば,『英語語義イメージ辞典』の例文にI wish I could share this beautiful sunset with you.「この美しい夕日を君と一緒に眺められたらいいのに」というのがある。これを「共有する」と訳すとかなりおかしい。院試塾の「心理英語実践講座」の課題にも,One of the most basic forms of learning of all, and one which is shared by other animals too, is known as association learning.というのがあるが,これなども「他の動物にも見られる」などとしないと,「人間と動物が学習を共有する」では意味不明だ。
20:28:17 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

27 May

リスニング学習の新兵器—リスニングプレーヤー

 電車などでの移動の多い生活をしていると,移動時間の有効活用を当然のように考える。ぼくの場合読書をすることも多いのだが,最近は英語のリスニング力を鈍らせないための学習時間にあてることが多い。
 デジタル・オーディオ・プレーヤーの登場で,機材もずいぶん小型化されて,リスニング練習の環境も改善された。ソニーのICリピート機能付きカセットテープ・プレーヤーの時代からこうした機材を使っている人間としては,隔世の感がある。
 そんなぼくが最近購入して使っているのが,SIIのリスニングプレーヤーDr.VOICE neoである。コンテンツカード方式で,内容を差し替えて使うことができる。ぼくがもっともすばらしいと感じるのが,テキストを持ち歩く必要がなくなることだ。というのも,画面にテキストが表示されるのである。しかも,日本語訳まで見ることができる(ぼく自身は訳を見ることはめったにないが)。電子辞書としても使うことができ,ジーニアスの英和/和英が搭載されている(停止状態であれば表示テキストから引くことも可能)。
 コンテンツカードはどちらかというと初心者向けのものが多いが,ぼくの使っている「CNNライブ」はなかなか聴き応えがあって話される英語にもバリエーションがあり,高度な練習にはもってこいだ。TOEICやセンター試験用のコンテンツカードも発売されている。
 リスニングはとにかく毎日聴くことが大切である。そのための練習用としてぴったりだろう。せっかくだから,『CNN English Express』の内容を毎月何らかの形で販売してもらえるとさらにありがたいのだが…。
14:06:17 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

21 May

勉強するとはどういうことか?—学問の本質

 仕事がら,学問論や勉強の方法などに関する本を読むことが多い。いわゆるハウ・ツーものはあまり読まないが,基本的な考え方を説いているものを多く読む。常に感じるのは,根本にある姿勢はあまり変わらない,ということだ。一方で,大学院入試教育を含めいろいろな場面で「学問を志している『はず』の人」たちに接していて,どうしても感じざるを得ないのが,この人たちの意識の「ズレ」である。つまり,学問論で説かれているものとこの人たちが求めているものがあまりに違っている,ということだ。もちろん,なかにはきちんとした考え方が持てている人もいて,この人たちは概してうまくいく。学問の本質をある程度つかんでいるのだから,これは当たり前だとも言えるだろう。
 この記事では,これまでに読んだ本から,学問・勉強の本質に触れた内容を紹介していこう。
 まず,学問は自分でするものだ,という点について,2005年10月30日の記事「学問と『課題設定能力』」でもとりあげた,中山茂『大学生になるきみへ−知的空間入門』岩波ジュニア新書の一節を見ておこう。

高校までは,学問といえば,受験で出るような問題を塾や学校の先生に指導されて解くことだった。きみたちは、先生の指導どおり勉強することが学問だと考えているだろう。学問なんて一生するものだ。そして卒業したら,先生に聞かなくても,一人でできるようにならなくてはいけない。大学の四年間はだんだん自立していって,つまり教師離れしていって,一人で学問ができるようになる過程だと心得てほしい。(p.17)

タイトルからもわかるように,この本が高校生,ないしは大学学部生向けに書かれていることをまずはしっかりと確認する必要がある。大学院に進もうというのであれば,この姿勢は当然身についていなければならない,ということだ。ところが,大学院入試を受けようというのに,こうした姿勢がまったく身についていない人がけっこういる。そうであれば真摯に反省し,大学院入試を1つの契機ととらえて変わろうとすればよいのに,今までの悪い習慣が抜けないばかりか,こうした考えは間違いだと言わんばかりの態度をとる人もなかにはいる。院試塾トップページでも書いているが,院試塾ではこうした点の指導も重視している。
 続いて,これもすでにとりあげた(2005年11月3日「自分で考えることの大切さ−たとえ教わる場合でも」),畑村洋太郎『畑村式「わかる」技術』講談社現代新書から。

 受験産業が発達しているいまは,学校別に過去の試験問題を徹底的に分析して傾向を割り出すことがふつうに行われています。すると,目標にしている大学の受験に必要とされる解法パターンに絞って覚える丸暗記タイプでも,合格は可能でしょう。事実,このようにしてかなりの難関大学合格している人も,世の中にたくさんいます。たしかにこと受験勉強に限れば,いちばんムダの少ない効率的な勉強方法だといえるかもしれません。
 私自身の印象でも,東大に入ってくる学生の少なくとも三割くらいは,こうした丸暗記によって,受験を突破してきたように見えます。そうした丸暗記タイプは自分の知っている問題に対しては,たいへん解答スピードが速いのが特徴です。
 しかし残念ながら,大学に入ってからは,こうした人は非常に苦労することになります。なぜなら大学では,暗記だけではクリアできない「自分で考えを構築していかなければいけない」「何が課題なのか自ら見つけなければいけない」「見つけた課題を自分なりに解決する方法を講じなければいけない」などといったことが求められるからです。記憶力とマッチング能力だけでやってきた人には,これができないので,とたんに何もできなくなるということが起こります。言い換えればそうした人たちは,テンプレートは持っていても,それを応用できない人たちということになるでしょう。(pp.85~6)

「自分で考えを構築していかなければいけない」「何が課題なのか自ら見つけなければいけない」「見つけた課題を自分なりに解決する方法を講じなければいけない」という意識をしっかりと持って大学院入試に臨めているだろうか。「すでに構築された考えを要領よく『教わり』たい」「課題は与えられるものだと考えている」「課題解決の方法はどこかに書いてあるはず」と思ってはいないか。ここでも注意すべきは,こうした心構えはすでに大学で身についているべき,と筆者が考えている点だ。
 何のために勉強するのか,を深く考えるきっかけとなってくれる文章もある。溝上慎一『大学生の学び・入門−大学での勉強は役に立つ』有斐閣アルマの一節だ。「自分を発展させるための勉強をしよう!」という見出しがついている。

公務員であろうが教師であろうが,国際社会で働こうが,現場での仕事に答えはない。大きな意味では最低限の基礎や基本的なルールはあるが,いわれたとおりのことだけをやる仕事などそう多くはない。たとえばブルーカラーの職種のように,いわれたことだけをやるように見える工場の生産ラインの現場でも,個人の能力はさまざまな機会に問われている。具体的にいえば,トラブルが発生したときにどう対処するか,品質管理を高めるための技能をどう身につけていくか,中間管理職になったときに従業員の志気をどう高めていくか,次から次へとリニューアルする作業工程に部署でどう柔軟に対応していくか,などである。一定程度のマニュアル,それまでの経験の蓄積などはあるものの,それをうまく理解して継承したり不十分な部分を改訂したりする作業は,まさに現場にいる個々人の判断でなされる。ブルーカラーの労働現場でさえそうなのであるから,大卒の多くが就くホワイトカラーの現場ではいうまでもない。昨今の先が見えにくい社会,再構築が次から次へと迫られている社会においては,この傾向には拍車がかかっている。どんな現場であっても,人生常に自分を発展させるための勉強が問われ続けるのである。(pp.20~1)

このあとにも,「仕事に役立つ本当の力は学ぶ力!それは大学で身につけるもの」と説いている。大学院入試のための勉強,英語を学んだり研究計画書を書いたりすることを,「大学院に合格する」という短期目標を達成するために「こなす」べきステップと考えるか,「自分を発展させるための勉強」の一環と考えるかの違いは大きい。もちろん院試塾では後者の考え方をとっており,そうした指導を心がけているが,前者のような考え方をしている受講生もいるのが現実である。
 これまで引用した3つの立場にはある共通点がある。それは,大学での勉強には「正解がない」という点だ。高校ないしは大学入試までの勉強はある種人工的な環境で,「正解」が出るように「作られている」。人工的な環境であるからこそ,「傾向と対策」が可能なのである。すでに引いた中山茂も以下のように述べている。

受験的学問の特質は,答えだけあって,問いがないことである。いや,問いは他から与えられる。先生や試験官から与えられる。自分の自発的・内発的な問いではない。「学問とは問うこと」という定義には反する。(p.2)

繰り返し言うが,中山が対象としているのは高校生ないしは大学生だ。大学院に入ろうというからには,当然ながら「自分の自発的・内発的な問い」が持てる姿勢が身についていなければならない。
 正解があるという「思い込み」については,苅谷剛彦も『知的複眼思考法−誰でも持っている想像力のスイッチ』講談社+α文庫で,「『正解』という幻想」という見出しでこう述べている。

 最近の若者たちは,いわれたことはきちんとこなすが,自分からは何をしていいのか,十分な状況判断ができない。「マニュアル族」「指示待ち族」だ,などと悪口をいわれることがあります。学生たちを見ていても,与えられた課題についてはまじめに勉強するのですが,自分から問題を立ててそれを解くということは,あまり得意ではないようです。
 毎年,卒業論文のテーマを決める時期になると,適当なテーマを見つけられずに頭を抱える学生が出てきます。関心を持つ領域やテーマをおぼろげながら見つけても,それを的確な「問い」のかたちで表現できない学生もいます。いったん問題を与えられれば答え探しは得意なのですが,自分で問題を探して解くとなると,それまでの教育や受験で培った能力だけでは太刀打ちできないのでしょう。
 しかも,気がかりなのは,問題が与えられた場合にも,学生たちは,どこかに正解がある,と思っているふしがあることです。学生たちと議論をしていても,性急に答えを探したがる場面が少なくありません。素直さ,まじめさの裏返しなのかもしれません。じっくり考えるより,簡単にどこかに答えがあると思ってしまうのです。(pp.48~9)

大学院入試で研究計画書を書くときに,多くの人が直面するのもまさにここに書かれている問題,すなわち「関心を持つ領域やテーマをおぼろげながら見つけても,それを的確な『問い』のかたちで表現できない」という問題だ。この問題を乗り越えようともがき苦しむ過程で,学問や研究に対する心構えができてくる。院試塾での指導経験でも,この過程を通じて,「学問をする人間」として大きく成長する人が少なくない(この経験をした人の率直な感想が「合格者コメント」に多くある)。逆に,この問題を避けてどうにか楽をしようとすると,せっかくの成長の機会を逃すばかりでなく,短期的な目標である大学院合格すら果たせなくなってしまう。
 こうした点から,数ある大学院予備校の広告などをもう一度よく見るとよい。「本物」と「偽物」の違いが明確になるはずだ。もちろん,院試塾だけが本物だ,などという尊大な主張をするつもりはない。しかし,一見優しげで思いやりがあるような顔をしている「偽物」が存在しているのもまた事実だ。
 もし大学で,これまで生きてきたなかでこうした「学問に対する姿勢」を身につけられていない人は,ぜひ大学院入試という機会に,しっかりとした姿勢を持つようになってほしい。院試塾はそう決意した人を全面的に,しかし時に厳しく,サポートしている。
22:06:35 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

17 May

語法の理解と図解—in / from perspective

 perspectiveは「視点」「観点」といった意味で用いられる名詞である。この訳語からすると,from a ~ perspectiveで「〜な視点から」という意味で用いることができると予測できるが,この予測は正しい。しかし,『英和活用大辞典』を見ると,look at something in [from] a new perspectiveとあり,from以外にinも用いることができることがわかる。また,keep ~ in perspective「〜を客観的(大局的)に見る」やput ~ in(to) perspective「〜を全体的にとらえる」といった熟語表現もある。
 このように,perspectiveが複数の前置詞とあわせて用いられる現象をどのように考えればよいか。まず,perspectiveに「遠近法」という意味がある点を考慮する必要があるだろう。この意味から,「透視図」「全体像」などの意味が生じている。これと「視点」などの意味を考え合わせると,この背景には以下のような理解があるものと考えられる。

from a 〜 perspectiveと言うときには赤丸の部分に着目しているのに対して,in a 〜 perspectiveと言うときには青い四角の部分に着目しているわけだ。上で挙げた熟語表現の,「全体的な見かた」という意味のperspectiveは不可算名詞だが,基本的には青い四角のほうに着目していると考えてよいだろう。なお,熟語表現のin / intoの交替については,2006年1月3日の記事「英語表現の相互関係—1つの表現から表現を増やす」も会わせて参照してほしい。
19:23:56 - yhatanaka - No comments - TrackBacks