院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

29 February

言葉の使い分け

 高校時代までを兵庫県で過ごしたので,ぼくの母語はいわゆる関西弁である(ただし,ひとくちに「関西弁」といっても相当な地域差があるので,実のところひとくくりにはできないが)。一方,大学以降は茨城県で過ごしており,茨城弁もある程度は話せる。現在,日常会話はいわゆる標準語(言語学的には「共通語」)で行っている。
 ふと,これらを自分がどう使い分けているかが気になった。きっかけは独り言だ。常に意識しているわけではないから細かい部分はわからないが,ぼくの独り言の多くの部分はいまだに関西弁ではないかと思う。少なくとも,この記事を書くきっかけとなった独り言は関西弁だった。今や茨城に住んでいる時間のほうが長いのだが,言葉のうえでのアイデンティティはいまだに関西人なのかもしれない。
 さらに考えてみた。まず,家族と電話で話すときには間違いなく関西弁である。もちろん,直接会って話すときもそうだ。実家に帰省するときにいちばんよく使うのは新幹線で,車内販売で何か買うときには共通語を使っている。たぶん新大阪(または新神戸)について最初に交わす会話から関西弁になる。まあ当然といえば当然だ。
 関西にいる友人・知人と話すときはどうか。相手がもともと関西圏の人であれば何の問題もない。一方,東日本出身で関西に住んでいる相手だとどうなるか。これはかなり微妙な問題であるように思う。相手が怪しげな(失礼!)関西弁を話すから,ますますややこしくなる。内省してはみるものの,その状況にならないとわからない部分が多い。
 日本語と英語だとどうか。それなりに英語が話せても,やはり「よいしょ」という感覚がいまだに伴う。母語と非母語の決定的な違いなのかもしれない。
17:42:00 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

28 February

形容詞の解釈—派生と文脈

 英語の形容詞にはよく「〜的な」という訳語が当てられるが,この訳語は思考停止のもとである。こう訳しておけばとりあえずは安心だと思うかもしれないが,内容がわかっていないのを実は自らさらしてしまうようなものだ。なぜなら,わかっている人は絶対にそう訳さないからだ。以下の例を見てほしい。

Is there enough matter in the universe to prevent the expansion from continuing forever, so that the self-gravity will make the expansion stop and be followed by a contraction? Or is there not enough matter in the universe to stop the expansion, so everything keeps expanding forever? This is an experimental question. (Carl Sagan (2006) The Varieties of Scientific Experience: A Personal View of the Search for God. Penguin. p.156)

下線部のexperimental questionはどのように解釈すればよいだろうか。もちろん,「実験的な疑問」ではまずい。このexperimentalのように名詞から派生している形容詞の場合,もとの名詞experimentと十分に関連づけて考えなければならない。つまり,とりあえずquestionにexperimentを結びつけるために,experimentalという形容詞形を用いると考える必要があるのだ。この2つの名詞の意味関係は,現実世界に関する知識・理解と文脈の2つの点から具体的に詰めていく必要がある。
 まずは前者の点から考えてみよう。「実験」と「疑問」がどのように結びつくかを考えてみるわけだ。いちばんありそうなのは,おそらく「実験をして疑問を解決する」ではないだろうか。つまり下線部は「実験によって答えが出る疑問」という意味になる,ということだ。この解釈に到達するためには,自然科学において実験がどのような働きをするかを考えなければならない。
 文脈はどうだろうか。上記の引用だけではわからないが,さらに後続部分を見ていくと実は言い換えが出てくる。

And it is very likely that in our lifetime we will have the answer to it. And I stress that this is very different from the usual theological approach, where there is never an experiment that can be performed to test out any contentious issue. Here there is one. So we don't have to make judgments now.

この引用部分の下線部を見れば,前の引用のexperimental questionはやはり「実験によって答えが出る疑問」と解釈してよいことがわかる。
 辞書を見ても,実は「〜的な」以外の訳語がけっこう挙がっている。『ジーニアス』には「実験に基づく」というのがあるし,『リーダーズ』ではこの訳語が最初に出てくる。となると,「〜的な」と訳している人は辞書をきちんと見るという基本的なことすら怠っているということにもなるのだ。
19:53:17 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

26 February

見ているけれど,見えていない

 何かを「見る」ことと何かが「見える」ことは同じではない。といっても,今回は英語のlookとseeの違いの話をしようというのではない。何かが「見える」ためには,実は受け手の側で条件が整っていないとダメだ,という話である。
 英語を教えていてこういうことが時々ある。訳語が違うので「例文は見ましたか」と尋ねる。相手は「見た」と答える。しかし,本文とかなり近い例文がその辞書には載っているので,見たなら気づかないはずはない…。この人はその例文を見たのか見ていないのか。おそらく「見て」はいるのだろう。しかし,それはひょっとすると以前に「例文を見るように」言われているからしかたなく「目を走らせた」だけのことかもしれない。しかし,こういうものは「見えて」いなければ意味がない。
 この場合の「見える」ための条件とは何か。まず,辞書の例文が大いに参考になることを常に意識していることだろう。また,本文の該当する語を含む文やその文脈が頭に入っていることが大切だ。言い訳ではなく,本当の意味で「意味はわかるが日本語にうまくならない」(実は,このように言う人の大半は本当にはわかっていない)と感じていれば,例文の訳の的確な日本語はすんなりと見つけられるはずだ。
 ものの種類を見分けたりするのも同じことだ。「筑波実験植物園」でも書いたが,ぼくにとっては「木」「草」「花」でしかないものが,「見える」人には具体的な種としてとらえられる。ぼくは旅客機を見るのが好きでたまに羽田に見に行くが,ぼくにとっては具体的な機種として見えているものも,知識や興味のない人にとってはただの「飛行機」でしかないだろう。
 つまり「見える」とは単なる受け身の作業ではなく,知覚情報とその人の持っている知識や概念とが照応してはじめて成立することなのだ。何かを「学ぶ」とは,より多くのものが「見える」ことにほかならない。
17:18:02 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

23 February

筑波実験植物園

 つくば市にある筑波実験植物園(つくば植物園)に久しぶりに行った。東京・上野にある国立科学博物館の施設の1つだ。特別に植物に興味があるというわけでもないのだが,何となく雰囲気が気に入っていることもあって,学生時代にはよく行った場所だ。安い入園料(現在でも300円)でゆっくり楽しめるのもよい。
 平日の植物園は実に空いていて,じっくりと散策が楽しめる。そもそも植物園というのは,動物園や水族館に比べると地味で人気(にんき)もあまりないようだ。動物や魚と比べると動きがないからかもしれない。人気(ひとけ)も少ない。特に冬は花も葉も少ないので殺風景だからだろうか。
 園内はかなり広く,ゾーンごとに特定の植生が再現されている。岩礫地を再現したエリアから見ていく。「ミヤマキリシマ」という札が目に入る。芹洋子の『坊がつる賛歌』にも登場するが,歌は聴いたことがあっても実物を目にしたことはない。花の咲いているシーズンに見れば記憶にも残るだろうが,今はその季節ではない。こんなことを思いながら見て回る。
 仏前に供えるシキミがある。学名はIllicium religiosumだそうだ。religiosumはreligionと関係するのだろう。有毒とのことで,後で調べてみると実に毒があるとのこと。後で回った熱帯雨林温室にはインドボダイジュがあったが,こちらの学名もFicus religiosaである。なお,神前に供えるサカキはCleyera japonica。
 いろいろな種類の森林を再現しているエリアがある。洋種の樽に使うミズナラや,母校である兵庫県立三原高等学校(現・兵庫県立淡路三原高等学校)の校章になっているユズリハの仲間(植物園で見たのは正確に言うとエゾユズリハ)を見た。高校の校章は近くにある諭鶴羽山(淡路島最高峰)にちなんだもの。
 人気の少ない園内をゆったりと歩いていると,このようないろいろな連想が頭の中をよぎる。植物を関心を持って見たことがあまりないから,見ても識別できない。それでこの植物園が好きだというのだから自分でもよくわからない部分があるが,目にするのはほとんどがただの「木」「草」「花」などである。言語学や人類学でよく出てくる「サピア=ウォーフの仮説」を思い出す。雪と関わりの深い生活をしているイヌイットの言語には,雪を表す言葉がいくつもあるという(日本語で言うと「○○雪」とするのではなく,「霰」「霙」「雹」などの違う言葉で表すようなもの)。ぼくにとってはただの「木」が,興味を持って見ている人にはいろいろと分節化されて見えるわけだ。
 大学の総合科目で履修した「有用動植物のルーツ」という授業のことも思い出した。農林学類(現・生物資源学類)で開設されていた授業で,その名のとおり各回ごとに1つの有用動植物をとりあげ,その起源と伝播や現在の利用などについて解説を受けた。今となっては内容などほとんど覚えていないが,文化間の交流とともにこうした伝播過程が存在するのだということに感心した覚えがある。内田百里『百虜唾漫戮涼罎埜譴辰討い拭こ慳笋慮果は忘れた後に残る,という趣旨のこともあわせて思い出す。このように連想の連鎖が次々とつながるのは,京都の哲学の道ではないが,歩くことの効用かもしれない。
 ふと見上げると,小さな鳥がさえずっている。その声に応えるように,別のところから違う声が聞こえる。少し立ち止まって様子を見ていると,どうやら2羽の鳥が鳴き交わしているようだ。鳥が後尾相手を見つけるのにこうした方法をとることは知識として知っていても,実際にそうした場面に出くわすのは初めてだ。学生時代の恋愛などにまで連想が及び,少し感傷的になる。
 この植物園でぼくがいちばん好きなのが,4つある温室だ。まずは熱帯水生植物の温室から見ていく。マングローブの植生が再現されていたり,浮草がどのようなしくみで浮いているかを解説していたりする。続いては熱帯雨林温室。低地林と山地林の2つに分かれているが,特に前者がヤシの木などもあって興味深い。熱帯資源温室では,バナナの花が咲いている。ナッツでおなじみのマカダミアや,アセロラ,バニラ,コショウなどよく聞く名前の木がある。しかし,ぼくらが普段見聞きするのはもっぱら実のほうで,木を直接見ることは少ない。コショウはちょうど実がなっているが,コショウの実が実際どのようになっているかは,実物や写真を見たことがないかぎりわからないのではなかろうか。以前,神戸にあるUCCコーヒー博物館にいっしょに行った先輩は「勉強するとよけいにおいしい」という名言を吐いてくれたが,そんな言葉を思い出す。そう言えば,コーヒー豆がどのように作られるか,あれは実のどの部分なのかを知っている人も多くはないのではなかろうか。
 最後はサバンナ温室。昔からここのサボテンエリアが大好きだ。いろんな形のサボテンが生えていて,見ていて飽きない。他にはユーカリ,ナツメヤシや,『星の王子さま』でおなじみのバオバブの木などもある。ただし,挿絵のものとはかなり異なる。
 園内を見終わってから筑波大学の構内まで歩き,つくばセンターまでバスに乗る。ぼくが在学していたころには無料の「学内バス」があったが,今は有料の循環バス(ただし,学生や教職員は破格の年間パスがある)になってしまった。センターで食事をし,以前紹介した「つくばの太陽系」を見に行った。冥王星のその後が気になったからであることは言うまでもない。工事をしていたので少し心配になったが,冥王星は健在だった。
16:06:43 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

21 February

大学での日本語(国語)教育

 早稲田大学で新入生向けに日本語文章の講座を受けさせるという報道があった(読売新聞2007年10月19日)。日本語で論理的に書き,話す力を身につけさせることが目的だという。院試塾の目標の1つとも一致する部分があるので,それなりに興味を持っている。
 たしかに,大学入学生のこうした能力が全般的に高いと言いがたいのは実情だろう。大学入試の小論文,志望理由書,面接などの指導をしていても,こうした能力の欠如は切実に感じられる。自由英作文でも,設問の解釈から主題の選択,論理展開などがきちんとできている答案はあまり多くない。さらに,大学院入試の研究計画書などでも,こうした問題に遭遇することが多いのも事実だ。そうしたなかで,大学が何らかの取り組みをしようとすることの意味は大きいと思う。
 しかし,である。大学内部でどれだけの議論や検討が行われているのか,報道では明らかになっていないようだが,課題の分析を十分に行い,その課題ときちんと向き合うような教育方法を考えなければ,結局はお題目に終わってしまうのではないだろうか。
 たとえば,「論理的」とは具体的にどのようなことを指すのだろうか。記号論理学などを学ぶことを通じて「論理とは何か」「論理的な議論とはどういうことか」を学ぶのも1つの方法ではある。それとも,論理的な展開とそうでない展開の具体例を挙げ,論理性とはどのようなことかを検討させるのか。あるいは,もっとべつのほうほうをとるのだろうか。
 課題とその課題へのアプローチを,単なる「お題目」以上のものにしないかぎり,こうした試みは失敗に終わる可能性がある。というのも,大学入学以前の段階でも,少なくともしくみのうえでは,論理的に書いたり話したりするための教育が行われているはずだからだ。「国語」のなかで行われているだけではなく,「情報」でもプレゼンテーションを扱う部分がある。しかし,これらがきちんと機能していないからこそ,論理的に書き,話す能力が大学生に身についていないのではなかろうか。
 筑波大学では,ぼくが在籍していた頃にすでに「国語」の授業があった。学問研究のための日本語能力を身につけることが主たる目標の授業だ。同時に,日本語そのものに対する理解を深めるための内容も含まれていた。日本語・日本文学などを専門とする教員が担当するため,ぼくが受けたもののなかには文芸に偏った内容のものもあり,実際にどれだけの効果があったかとなると疑問が生じる部分もある。これも具体的な目標がきちんと共有できていなかったからかもしれない。
 この問題は今後興味を持ってフォローしていきたいと考えている。その過程で,ぼく自身の考えもまた書いていければと思う。
09:26:11 - yhatanaka - No comments - TrackBacks