院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

29 September

「クジラの構文」のバリエーション

 「いわゆる『クジラの構文』―A is no more B than C is D」や「いわゆる『クジラの構文』についてさらに」でとりあげた構文のバリエーションの実例に出会ったので,紹介しておこう。

Reasoning can be concerned with the right way of viewing and treating other people, other cultures, other claims, and with examining different grounds for respect and tolerance. We can also reason about our own mistakes and try to learn not to repeat them ...


No less importantly, intellectual probing is needed to identify deeds that are not intended to be injurious, but which have that effect; ... (Amartya Sen (2009) The Idea of Justice. pp. 46-7)



第2段落冒頭のNo less importantlyは,これが導入する論点が第1段落の論点に負けず劣らず重要である,という意味である。これは,いくつかの論点を列挙する場合には,通常,重要度の順に述べることを考慮しているものと思われる。「あとから述べているからといって,前の内容と比べて重要度が低いわけではないのですよ」と言っている,と考えればよいだろう。last but not leastなどと類似のものと言える。
21:50:46 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

27 September

いわゆる「クジラの構文」についてさらに

 今読んでいる,Nocholas CarrのThe Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains.で,9月22日の記事でとりあげたA is no more B than C is Dの構文の例に出会ったので紹介しておく。

As soon as you inject a book with links and connect it to the Web―as soon as you "extend" and "enhance" it and make it "dynamic"―you change what it is and you change, as well, the experience of reading it. An e-book is no more a book than an online newspaper is a newspaper. (p.103)

基本的なパターンのものなので,解釈は特に難しくないだろう。なお,電子版の新聞と印刷形態の新聞の違いについてはこれより前の部分で論じられており,それが前提となっている。
07:37:45 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

23 September

知識の問題は大きく二分できる

 学ぶとは知識を身につけることだ,と考えている人も多い。たしかに,知識を身につけることは必要な要素の1つではある。しかし,知識さえ身につければよいかというと,そうではない。
 知識にknowing that(宣言型の命題に還元できる知識)とknowing how(何かの方法を知っており,かつそれができること)とに分けられることはよく知られている。日本の教育ではknowing thatの部分が過剰に重視されているのが問題だという指摘がなされることがあるし,ぼく自身もそう考えている。英単語の意味を1対1対応で覚えるなどというのはその最たるものではないだろうか。
 今読んでいる,Atul Gawande (2010) The Checklist Manifesto: How to Get Things Rightに興味深い一節があるので紹介したい。

So as I looked up at this whole building that had to stand up straight even in an earthquake, puzzling over how the workers could be sure they were constructing it properly, I realized the question had two components. First, how could they be sure that they had the right knowledge in hand? Second, how could they be sure that they were applying this knowledge correctly? (p.53)

要するに,目的にかなう正しい知識を持っているだけでは不十分だ,ということだ。それを,目の前にある問題に正しく当てはめることができなければならないのである。knowing that / knowing howの区別とは若干異なるが,知識の問題を考えるうえで示唆に富む指摘である。
 英語の語彙や文法の知識はまさにそうである。知識がいくらあっても,それを使って目の前の英文が解釈できなければ意味がない。また,研究計画書などについても言えることではないか。研究計画書に何を書くべきか,どのように書くべきかの知識があっても,実際に書くとなるとうまくいかない人がいる。
22:25:37 - yhatanaka - No comments - TrackBacks

22 September

いわゆる「クジラの構文」―A is no more B than C is D

 大学入試のために英語を勉強した人なら,A whale is no more a fish than a horse is.「ウマが魚でないのと同じように,クジラも魚ではない」という例文を見たことがあるだろう。何だかよくわからないな,と感じつつ,暗記したという人も多いのではないだろうか。
 この構文を『ロイヤル英文法』(§160)では以下のように記述している。

この構文では,「AはBではない」ということを言うために,常識的にもしくは文脈から明らかにC≠Dとわかる例を引き合いに出して,AがBである可能性も絶対にそれ以上はない(no more)という形で両方とも否定している点に注意。

 実はこのno,9月19日の記事「noの意味」で解説したnoである。その記事でI am no less interested in the issue than you are.という文を紹介したが,この文はこの「クジラの構文」の1例だ。
 A whale is no more a fish than a horse is.という文はA is no more B than C is Dという形になっているが,この形は第2文型の文だけに限られるわけではない。『ロイヤル英文法』にもI no more believe in UFO's than you do.といった例文が挙がっており,「名詞だけではなく,形容詞や動詞や句の形」もありえるとしている。no moreを否定の副詞ととらえてneverが現れるのと同じ位置に置き,接続詞thanでもう一方の節とつないでやればよいのである。なお,thanは特殊な接続詞で,than節のなかで主節と共通部分はのうち比較尺度の中心となる形容詞・副詞は強制的に,その他の要素は任意に,省略される。
 ちょうど読んでいた本で,この構文の例を見つけたので紹介しておこう。

In the early years of flight, getting an aircraft into the air might have been nerve-racking but it was hardly complex. Using a checklist for takeoff would no more have occurred to a pilot than to a driver backing out of the garage. (Atul Gawande (2010) The Checklist Manifesto: How to Get Things Right. p.34)

該当文は「車庫から車をバックさせるときにチェックリストを使おうなどとは思わないように,パイロットも離陸するときにチェックリストを使おうなどとは思わなかっただろう」という意味になる。少し整理すると,Using a checklist for takeoff would not have occurred to a pilot. / Using a checklist would not have occurred to a driver backing out of the garage.という2つの文をつないだものと言える。
10:38:08 - yhatanaka - 2 comments - TrackBacks

20 September

couldと「できた」

 He could catch the last train.は「彼は最終電車に間に合って乗れた」という意味にはならない。そうではなく,たとえば,「あの時すぐに出れば乗れる状況にあった」という程度の意味でしかない。この点について日本人学習者の誤用が多いのは,おそらくcouldを「できた」と対応させているからだろう。
 この点について,学習用英和辞典を見ると,たとえば『ジーニアス4』のcouldの[語法]欄には以下の記述がある。

[couldとwas able to]「(…する能力があり,それゆえ実際に)ある1回限りの行為をした,できた」場合はcouldは不可:I was able to [×could] pass my driving test.車の運転免許試験に通ることができた《◆I could pass ...という文単独では,「私なら[その気になれば]運転免許試験に通ることができるのに」などの意味になるのが普通;この場合couldは仮定法[※中略]was able to以外にmanaged to do,succeeded in doingも用いることができる。しかし「…できた」は英語ではI passed my driving test.のように単に動詞の過去時制で表すことが多い》

上記の解説中,「文単独では」は,前後の文脈が特になければということで,助動詞の過去形は仮定法で現在の意味を表すのが基本,と考えればよい。なお,この解説はもちろん妥当なものだが,「なぜ過去の1回かぎりの行為を表すのにcouldを用いることはできないのか」という問いに答えてくれるものではない。
 そこで,この問いに対する答えを示しておこう。意外と単純な話で,canの現在の意味をそのまま過去にずらしたからだと考えればよい。たとえば,You can catch the last train.という現在形の文を考えてみよう。言うまでもないことだが,これは行為の達成を意味しない。単に,たとえば「今から急いで走っていけば間に合う可能性がある」とを述べているにすぎない。これを過去に移動すれば,その意味は「その時急いで走っていけば間に合う可能性があった」であって,行為の達成の意味は,そういう間違いをする人がいわば「勝手にすべり込ませている」にすぎないのだ。
 そして,この誤解の原因は日本語の「できた」とcouldとを単純に対応させていることにある。日本語の「できた」には(おそらく)完了を意味する「た」が含まれているため,行為の達成が含意されるが(もっとも,日本語文法における「た」の扱いはもっと複雑だが),英語のcouldは,上述のとおり,達成を含意しないのでずれが生じているのだ。
15:04:08 - yhatanaka - No comments - TrackBacks