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インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

梅棹忠夫『情報の文明学』中公文庫

 この本はかなり前に一度読んだことがあったが,今回また興味を持って読んだものである。本としての初出が1988年,収録されている論文には1960年代初出のものもあるが,この本で提示されている知見には,いまだに新鮮さを失っていないものが多い。
 梅棹さんの「情報」に関する考えでもっとも学ぶべきと思われるのが,その概念の広さである。「情報はあまねく存在する。世界そのものが情報である」(「情報の文明学—人類史における価値の変換」p.209)というのが梅棹さんなりの情報の定義である。もちろん,これでは広すぎて使いものにならない,という批判もあるだろう。しかし,昨今の「情報」のとらえ方の狭さがつねづね気になっているぼくとしては,この定義からまずは出発して,各自の必要に応じた具体的な定義をしていくことが望ましいと感じられる。
 情報と人間の関係についても,興味深い記述が見られる。「かんがえてみると,一般に情報機器と称しているものは,みずから情報を生産したりはしない。オリジナルな情報の生産は,もともと人間の仕事である。情報機器は本質的に,それを模倣し記録し,再生する機能をそなえていたにすぎない。情報機器というのは,もともと情報伝達,再生のための装置なのであった」(「情報の考現学—現代世相の解読のために)というものだ。こう書いているからといって,梅棹さんが情報機器を軽視していたわけではない。彼が館長を務めていた国立民族学博物館では,情報管理がきわめて重要な位置を占めていた(cf. 「情報管理論」『梅棹忠夫著作集 第22巻 研究と経営』p.269)。映像を選んで見ることのできる「ビデオテーク」も当時としては先進的なものであり,このことからも,彼の情報,ならびに情報機器に対する姿勢がうかがえる。
 コンピュータについても彼はふれている。「情報の考現学—現代世相の解読のために」では,「コンピュータリゼーションをもって,情報化ととらえる見かたがある。さらに,コンピューター産業をもって,情報産業ととらえる見かたがある。(中略)これはもちろん,情報産業のきわめて狭い解釈である。あるいは,情報産業のもつ可能性の過小評価である。情報産業ははるかに広大な文明史的傾向をさすべきであって,単なる機械工業の一分野であるコンピューター産業に限定されるべきではなかろう」(p.294)と述べている。これは現在の情報教育にもそのまま当てはまる。コンピュータを使うことだけが情報教育ではない。文明史上の一局面である「(高度)情報化社会」の性質を正しく理解し,その中で必要な技術や能力を身につけさせていくことを目的とするのが,情報教育の正しい姿であろう。もちろん,その中でコンピュータが果たすべき役割は大きい。しかし,すでに引用したとおり,オリジナルな情報を生産するのはあくまで人間であることを忘れてはならないだろう。ややもすると,現在行われている情報教育は,コピー&ペーストで「レポート」を書いて平気な顔のできる学生を量産することにもなりかねない。
 情報教育に関わるすべての人,情報産業に携わるすべての人に,ぜひ読んでほしい一冊である。もちろん,この本に書いてあることがすべて正しいなどというつもりはないし,ぼくなりの考えが別にある部分もある。しかし,すくなくとも「たたき台」として,まずはこの本を読んでみてほしいと思うのである。

posted at 19:23:58 on 11/01/04 by yhatanaka - Category: 読書録

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