院試塾ブログ
インターネット大学院予備校代表・畑中泰道のブログ

何もしないで,何をするか

 いつのころからだろう? こんな光景をよく目にするようになったのは。つきあっていると思しき男女が飲食店に入ってくる。席に着くやいなや,2人とも携帯をとりだしていじりはじめる。おそらくはいちばん大切であるはずの相手が目の前にいるのに,その相手と会話しないのである。
 といっても,ありきたりのケータイ批判をしようというのではない。携帯はもちろんひとつの重要な要因ではあるのだが,もっと大きな「何か」が起こりつつあると感じてしまうのだ。それは,「何もしないこと」に対する耐性の低下である。
 最近の大学生は「お友達ごっこ」が大好きなようで,四六時中友だちといっしょにして,一人の時間を持てない,ないしは,持とうとしない。手帳の予定が空白だと不安になる,という話すら聞く。大人たちも「忙しさ自慢」で競い合ったりする。つまるところ,人生を「効率」で測り,時間を行為や行動で「埋めていく」ことこそが,充実した人生を生きることだと思いこんではいないだろうか。
 学ぶことにおいても,「作業」を量で測り,作業を多く行えばことが進捗しているのだと勘違いする。行為や行動で時間を埋めること,作業を量で測ること。どちらも実に貧しい発想だとぼくは思うのだが,世の中にはびこっている。
 結局,根っこにあるのは「効率至上主義」なのだろう。簡単に言うなら,【効率=成果/時間(または,労力)】である。この見方の最大の問題は,これに縛られると途中経過が楽しめなくなることではないか,と思う。
 途中経過から「ムダ」をなくすいちばん簡単な方法は,何もしていない時間を取り去ることである。そして実際,時間を行為・卯道で埋めるという習慣は,何もしていないことに対するある種の恐怖心と密接な関係があるように思われる。
 しかし,一見何もしていないように見えても,人間の内面では実に多くのことが生じている。「場」と向き合い,「自分」と向き合っているのである。それこそが本当にその「場」を楽しみ,「自分の存在」を楽しむということである。冒頭の例について言うなら,いちばん大切な相手と,同じ時間,同じ経験を共有していることこそが,楽しいことのはずなのだ。
 別の例を考えてみよう。読書の「楽しみ」はどこにあるか。仮に「読まなくても頭に入る」しくみがあったらどうだろうか。効率の観点から見ると,これほどすばらしいことはないとも言える。しかし,そこに読書の「楽しみ」はない。なぜなら,読書の楽しみの大半は「読む過程」にあるからだ。それにそもそも,そんなしくみができてしまったら,情報が頭に入っていること自体の「ありがたみ」もなくなってしまうのである。
 簡単なことだ。その場と向き合い,自分と向き合う。そういう時間をもっと大切にしてみてはどうだろうか。

posted at 09:29:40 on 04/04/12 by yhatanaka - Category: 雑感

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